礼拝の秩序 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 14章26-40節

説教要旨6月23日録音


主日礼拝「礼拝の秩序」石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙 14章26-40節
コリントの信徒への手紙14章の最後で、パウロは礼拝の秩序について語ります。当時、コリント教会では聖霊を受けた人が自由に説教し、さらにその説教に異言も混じりこんでいたために、礼拝がしばしば混乱しました。語る人たちは皆、自分が聖霊を受けたことを喜んで語ります。しかし、パウロは礼拝において語られる言葉が独りよがりのものではなく、教会を「造り上げるため」のものであるべきだと語ります。そして礼拝の秩序について、具体的に指示します。「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい…」。
当時の教会は礼拝形式がまだ定まっていませんでした。プログラムも週報もありませんでした。讃美歌を歌い、聖霊の導きを祈り求めつつ聖書を読む。すると、神が語ろうとしていることが明らかにされる。その時一人が立ち上がって語り出します。別の人も立ち上がって熱心に語り出します。このとき「先に語り出していた者は黙りなさい」と、パウロは言います。どちらの内容が良いとか、話が上手とか、年長者であるとか、そういうことは問わずに先の者は「黙りなさい」と言っているのです。
「一人ひとりが皆、預言できるようにしなさい」と言われているのも、全員が説教者となるということではなく、皆が預言できるよう礼拝を整えなさいということです。誰の口を通して神がご自身を現わされるのかわからないのだから、黙して備えなさい、と言っているのです。沈黙することで、聖霊が他の人にも働くという信頼を学びます。
コリント教会の当時の礼拝をイメージするときに、思い出す教派があります。17世紀にイングランドで始まったクエーカー(フレンド派)と呼ばれる、プロテスタントの一派です。クエーカー伝統的な礼拝はプログラムを持たない沈黙の礼拝です。礼拝では共に神の言葉を期待して待ち、示された人が立ち上がって証します。一人話し終えると他の人が話し出し、「歌おう」と促されたら一緒に歌い出します。
これに対して、わたしたちの教会の礼拝は、讃美や祈り、説教も、礼拝奉仕者があらかじめ準備します。礼拝に集う一人ひとりが、自分の歌いたい讃美や祈りたい祈りを携えてくるのは自然なことですが、皆が皆自分のしたいようにするなら混乱してしまいます。だから、わたしたちは今日の礼拝プログラムに新しい信頼をもって集うのです。自らの祈りや讃美を超えて、この場所に聖霊が働いてくださることを期待しつつ。
一見、当時のコリントの教会の礼拝とはずいぶん異なるようですが、共通することがあります。彼らは礼拝の中で自由な聖霊の働きに期待しており、わたしたちもまた、この礼拝プログラムを通して聖霊が働いてくださることに信頼しているということです。
礼拝の秩序について語るとき、パウロは組織や形式よりも「沈黙」を重んじています。「黙りなさい」と三度も繰り返します。女性への沈黙要請は普遍的な教えではなく、当時コリント教会が直面していた特殊な状況を前提に語られていることですが、いずれにしても、パウロは黙ることを強調しています。
神が来られるとき人は喜んで口を閉じ、耳を傾ける、とパウロは考えています。自分の存在が大きくなればなるほど、人は耳が聞こえなくなります。礼拝は自分ではなく神の存在を大きくする場所です。そのとき、人は沈黙する喜びを味わうことができます。沈黙は礼拝の秩序をつくるばかりでなく、わたしたちの生活の秩序になるのだと思います。
いつも礼拝が終わると、次の日曜日の礼拝の聖書箇所にしおりを挟む習慣を持っていた方が、あるときハッとして、「今日のみ言葉」にしおりを挟み直した、と話してくださったことがあります。その方は、み言葉を聞いて終わりにするのではなく、そのみ言葉を聞き続けたいと考えたのです。「聞く」ということは、「思い起こす」こととも言えるのかもしれません。わたしたちは話すことには熱心なのに、聞くことに時間を費やすことの少ない者です。わたしたちが、朝目覚めたときに「今日一日あなたの言葉を思い出すことができますように」と祈ることから始めるなら、この祈りがわたしたちの生活の秩序をつくるのです。