愛がなければ、無に等しい 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙12章31b節-13章7節

説教要旨5月5日録音


聖餐礼拝(主日礼拝)「愛がなければ、無に等しい」石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙12章31b節-13章7節
Ⅰコリントの信徒への手紙の13章は、「愛の章」。あるいは「愛の賛歌」と呼ばれています。もっぱら愛を語る箇所だからです。あまりに美しいため、この箇所は手紙の差出人であるパウロの筆ではなく、誰かの愛の歌を引用したのではないかとも考えられてきました。しかし、聖書の元の言葉を見ると、「わたし」という言葉で何度もパウロ自身が登場しています。「たとえ、(わたしが)人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、(わたしが)預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、(わたしが)山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、(わたしに)愛がなければ、無に等しい。」つまり、パウロは教科書通りの言葉で愛について語っているのではなく、自分自身を告白しながら、彼自身を通して経験した愛について語っているわけです。
先週、教会の資料の準備をしている際、その文面について友人の牧師に相談をしました。どうしたら、もっと良くなるか。あるいはこのままで良いか。すると、その友人からいろいろと指摘されました。文体が相応しくない、文章が長い・・・。沢山のことを言われましたが、わたしの聞きたかったことは何一つ応えてくれませんでした。延々と続くお説教。その時、これか、と思いました。「騒がしいドラ。やかましいシンバル」。確かに正しい。しかし、そこに愛はない。その相手に対して、わたしも愛のない言葉を返しました。普段、愛について語っている牧師たちが、相手の耳元でドラを鳴らし続けたのです。他方、愛に触れることの多い週でもありました。事情があって家族のいない方の火葬のため、ある方と二人で火葬場に行きました。炉に収める前、花を添え、祈りをして、その時を過ごしました。集ったのは二人だけ。遺影も準備できませんでした。余所から見れば、よほど淋しい場面に見えたと思います。しかし、わたしには最も愛に満ちた場所に感じました。この方は家族を得て地上の生涯を終えることが出来たからです。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」と愛を紹介するパウロのように言うのなら、この時のことを、こう言えると思います。愛は立ち合うこと。愛は思い出すこと、触ること。愛は泣くこと。愛は家族になること、神に委ねること。もしかしたら、パウロも、誰かの愛に触れたとき、自分の愛のなさに気が付いたのかも知れません。ああ、自分はやかましいシンバルだ、と。そして、自分の触れた愛を思い起こしながら、この愛の賛歌は出来たのかも知れません。彼の思いの中にあるのはキリストの姿です。ここでは多くの愛が語られていますが、その筋道は忍耐です。「愛は忍耐強い・・・いらだたず・・・すべてに耐える」。パウロは教会の迫害者でした。そんな彼が本当の救いを知ることが出来たのは、キリストが忍耐してくださったから。他の人に信頼を得られないときも、主は望みを持ち続けてくださった。それを歌うのが、この愛の賛歌です。
この箇所は「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」という言葉で始まります。12章までは「賜物」が話題でした。けれども、ここで「愛」をパウロは賜物とは言いません。「最高の道」、言い換えれば、あなたの賜物の最高の使い道。どんな賜物も愛のために用いなければ空しい。なぜ、パウロが愛に紙幅をこんなに尽くすのか。与える愛の他に、奪う愛・愛に見えて愛ではないものがあるからです。相手に愛を注いでいるように見えて、実は、その自分の愛に応えてくれる愛を求めている事があります。相手の為に注いでいるように見えて、だれかの賞賛を得ようとしている事があります。それをパウロは「無に等しい」と言っているのです。彼の伝えたい愛は与える愛です。与えれば与えるほど、自分は痛み、古び、傷つき、何も残らない。ただ、満たされた相手だけが残る。このような愛は、とてもできないと思います。けれども、だれかが痛むことによってでしか、わたしたちが「生きる」というということは、本当はできないのだと思います。子どももそうです。赤ん坊はだれかからの与える愛なしには生きることはできない。だから、親は自分の気力、体力、能力、経済力を総動員して命を削ります。残るのは、ただ、良かったと思う心だけ。しかし、だからこそ、子は安心して眠ることが出来ます。私たちもそうです。今ある自分の姿のそばには、誰かの痛みが横たわっています。愛は、その痛みを数え上げることから始まります。パウロのように、その相手の愛を数え、歌う。その時、最高の道を歩み始めています。