愛は忍耐深い 石丸泰信牧師  Ⅰコリントの信徒への手紙13章4-13節(1)

説教要旨5月12日録音


主日礼拝「愛は忍耐深い」 石丸泰信牧師 


Ⅰコリントの信徒への手紙13章4-13節(1)
コリント13章の「愛の賛歌」の箇所を読みました。不思議な語り方だと思います。7つの肯定的な言葉と8つの否定的な言葉でパウロは愛を語ります。「愛は忍耐強い」これは環境に耐えるというよりも、人に対して耐えるという言葉です。相手にどんな態度を取られたとしても、その人を受け入れる強さです。ある人は、この「忍耐」は「赦し」と同じ。愛は赦しだと言いました。パウロ自身、神の赦しを誰よりも受けとめてきた人です。
「愛は情け深い」。これは「親切」という言葉です。自分の機嫌の良し悪しに左右されないで思いを相手に向けること。愛は「ねたまない」。人の成功に自分の機嫌を左右されません。「自慢せず、高ぶらない」。ここから否定的な表現が続きます。自慢する、高ぶることは自分を誇るときに出てくる態度です。しかし、愛はそれとは相容れないと言います。愛の関心は与えること。自己主張ではないからです。「礼を失せず」。相手に失礼な態度を取るのも、自分の存在を重んじて欲しい時に出てくる態度。同じ自己主張です。「自分の利益を求めず、いらだたず」。利益を求めないとは「自分のやり方を通さない」ということです。通そうとして、それが上手くいかないとき、人はいらだちます。しかし、愛は自分のやり方が第一ではありません。そして、愛は「恨みを抱かない」。これは元は会計用語です。記録に止めない。自分の掛けた迷惑は覚えていないのに、人にしてあげたこと、されて嫌だったこと、いちいち覚えて、記録していまいます。しかし、愛はその帳簿を捨てると言います。
そして、肯定的な表現に変わります。「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」。皆が真実よりも損得を喜ぶとき、世界は傾いてゆきます。しかし、愛は「真実を喜ぶ」。この真実とは単なる正義や、わたしたちにとっての正しいことではありません。正義も正しさも時代によって変わります。他方、永遠不滅の真理でもない。もしも、ここで言う「真実」が常に変わらず、冷たくも動かないものであるとしたら、それは唯一、わたしたちが罪人であるという事実だけです。しかし、聖書のいう真実は違います。情熱的で動く真実です。神が、その罪人をなお愛した。これが聖書の証しする生きた真実です。どんなに失礼であろうと不義であろうと妬もうと、自慢ばかりをしてようと、わたしたちを追いかけて止まない神の愛。愛は、この真実を心から喜び、大切にします。
私たちは、どんなに自分が立派に見えようと、反対にみすぼらしく見えようと、互いに誰かからの、この愛を必要としています。しかし、そこから目をそらして自分だけに拘り始めたり、人と優劣を比べたりし始めると、妬みや自慢、失礼な思いが心を支配し始めます、しかし、パウロの示してくれた、この愛の特徴は、自分の尊厳も相手の尊厳も見失うことなく、ありのままの自分を受け入れ、自分と仲良くする勇気です。それができるのは、ただ、わたしたちが信頼している神が、わたしのこともあの人のことも愛しているという真実を喜べるからです。
最後に、愛は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と言います。「忍ぶ」という言葉は「覆う」という意味の言葉です。愛は、その人の罪を暴きません。覆ってしまいます。「望む」とは、可能性があるから、相手を信じるということではありません。何の兆しもないにも拘わらず、相手を信じ、望むこと。それが言われています。それができるのは、相手の過去でもなく、今でもなく、その人の本来の姿を見続けたときです。
ある大学の先生は、講義の際、一人ひとりに挨拶をしながら、出席表を渡すそうです。その中で忘れられない学生がいたそうです。一年間、一度も挨拶を返さなかった学生です。毎回、挨拶を無視されて腹も立ったと聞きました。けれども、学期末試験の答案に、こう書いてあった。「先生、毎回、笑顔で挨拶してくれてありがとう」。ある人は、こう言います。「微笑みを忘れた人ほど、微笑みを必要としています」。挨拶ができない。そういう人こそ、挨拶を必要としている。愛を忘れた人ほど、愛を必要としている。今の姿を見て、あるいは、昨日までの姿を見て、この人は駄目だ。諦めようとするのは簡単です。続けるのは忍耐がいります。兆しがないのに信じないといけません。しかし、だれかが望み続けてくれたとき、その人は、自分の本当の姿を思い出すことができる。それは神が、私たちにしてくれたとこです。