幸せな家族? 小松美樹 伝道師 マタイによる福音書1章18-25節

説教要旨 12月15日 録音

「幸せな家族?」 小松美樹 伝道師


マタイによる福音書1章18-25節
第3のアドヴェントを迎えました。マタイが伝えるイエス・キリストの誕生は、イザヤの預言の成就として描かれています。「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」とは、旧約聖書に書かれていることの成就を言っています。それは「聖霊によって」起きたのです。使徒信条の「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」と告白しているのは、この聖霊によって起きた出来事です。

   クリスマスの知らせは、夫婦になろうとする二人に受け入れがたい衝撃としてやってきました。婚約中のマリアが身ごもり、夫のヨセフは「正しい人であったのでマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。婚約をしているということは、公になっていて、親戚や村の人たちがすでに知っていることになり、ヨセフの、密かに縁を切るということはできるものでは無かっただろうと言われます。

 ヨセフに「あの預言にある、救い主が生まれる」と告げたであろうマリアの言葉よりも、結婚前に妊娠したという事が大きな問題として目の前にありました。ヨセフはマリアの妊娠を受けて「ひそかに縁を切ろうと決心した」。しかし、決心しながらも迷いがあり思い巡らす日々でした。最悪の事態でありながら、マリアのその不可解な言葉に迷い、眠れない思いを抱えていたかもしれません。迷いの中にあるヨセフに天使が現れ、事の背後に聖霊が導いておられることが知らされました。

 ヨセフは正しい人であり、誠実であるからこそ、縁を切ること、表ざたにしないことを決めたのでしょう。しかしそれではヨセフは律法に正しくはありません。聖書の言う「正しい人」は律法に正しい人のことです。そうであるなら、結婚前のマリアの妊娠というのは、石打ちの刑に処せられる(申命記22:23)あるいは、離縁状を書いて家を去らせることができます(申命記24:1)。

しかし、そうはしない所にヨセフの人柄が見えます。ヨセフの決心は周りからは認められるものだったかもしれません。それでも迷っていたというのは、マリアへの愛のない正しさであるからだと思います。法に正しく裁こうとする時、愛を持って裁くことが出来ないのです。ヨセフは世の中の正しさではない方法が求められていました。律法に正しくないかもしれない。けれどもヨセフは、マリアへの愛をもって生きるようになりました。それまでは律法や人の目に支配されていたヨセフの生き方や考え方がかわりました。

 この不思議な出来事を、わからないままに受け入れて、歩みだしたヨセフを天使の御告げが導き続けて守ります。クリスマス無しには「律法より愛」には変えられませんでした。

 ヨセフにとって、マリアのお腹の子のことは半信半疑のままですし、親戚たちに見放された日々を過ごして、困難の中にあることは何も変わらない。孤独な思いを持っていたかもしれません。しかしその時、神に出会うのだと聖書には何度も記されます。そうしてヨセフたちは住民登録の長旅をしながら、泊まるところもなく、追いやられた先で赤ん坊が生まれます。

 マリアとヨセフにとって、受け入れた出来事が間違っていなかった、本当だったのだとはっきりわかるのは、東方の学者たちが訪れた時であったのだと思います。彼らはひれ伏して幼子を拝み、贈り物を捧げました。学者たちが幼子にひれ伏す、そのようなことが目の前で起きて、初めて周りの人たちによって知ることができたのだと思います。

 私たちがもうおしまいだと思う時、誰にも理解されないと思う苦しみや、眠れぬ夜をすごす時、すぐに答えを求めてしまいますが、神は必ず助け手と理解者を送ってくださいます。

 罪のない赤ちゃんが人の汚れをぬぐいにきてくださった。真っ白なふきんが私たちのために何度も罪を拭って、雑巾のようになるためです。

 歌や絵画、素敵な馬小屋のポストカードから、聖夜と言われるような満ち足りた雰囲気、幸せで暖かなクリスマスとは程遠い現実がありました。

 神の御計画を拒んだとしてもお腹が大きくなっていってしまう、逃げられないマリアに対して、ヨセフはそうではありません。そのヨセフに使命を神はお与えになったのです。マリアとヨセフが信じてなくても、クリスマスは来ました。けれども、もっとさみしいクリスマスだったことでしょう。インマヌ・エル、「神・我々と共におられる」このことを信じて歩み出す幸が苦難のマリアとヨセフの救いであり、私たちに問われていることであると思います。

 どんな災害や困難があっても、神我らと共にいます、そのことが主イエスによって事実になったのです。