静かなアドヴェント 石丸泰信牧師 ルカによる福音書1章57-66節

説教要旨 12月8日 録音


「静かなアドヴェント」 石丸泰信牧師


ルカによる福音書1章57-66節
第二アドベントを迎えました。アドベントの語源を辿るとアド(to)ベント(come)というラテン語の言葉でできています。一つの方向に何かが来る。つまり、神が人となって世に来られるのを待ち望む、期待感のある言葉です。そこからアドベンチャーという言葉もできました。冒険。未知との出会いです。未知との出会いというものが、どこか違う場所に行かなければ起らないというのであれば、行きたい人だけ行けば良い。しかし、原意は、ここに、何かが起こってくる。思いがけないことが自分の目の前に現れる。そういう意味の動詞です。そうであれば、誰にでも起こりうるし、その時のために、受け止める勇気と信頼する心が思いが求められるものだと思います。なぜか。新しい出来事として何かが起るというのは、良いことばかりではないからです。むしろ、大変なことが多い。新しい命があれば、別れがあります。痛みややめることなどもそうです。そういう意味でいえば、この一年も、いくつものアドベンチャーに巻き込まれたのではないかと思います。

しかし、教会は必ずしも良いことばかりが来るわけではないのに、それを思い起こす季節としてアドベントを大切にしてきました。その理由は、私たちにとって不測の事態であっても、そこに神の手が働いているという信頼があるからです。その出来事の渦中では、神の手が働いているなんて信じられないかもしれない。けれども、落ち着いて振り返って見ると、それが分かるかもしれません。そのために毎年、この季節があるのだと思います。今日の箇所の最後と「この子には主の力が及んでいたのである」という言葉は、他の訳では「主の御手が彼と共にあったからである」となっています。このザカリアの出来事には大変なことがあった。しかし、その背後には主の御手があったのだとルカは受け止めているのです。

洗礼者ヨハネの誕生までは大変な出来事が続きました。ザカリアには天使の予告がありました。それにしても天使の予告というのは不思議だと思います。天使ガブリエルはマリアにも予告をしています(1:26-)。「あなたは身ごもって男の子産む・・・神にできないことは何一つない」。マリアは結婚していないのに男の子を身ごもる。ザカリアの妻エリサベトも、もう子を産む年齢ではないのに男の子を生む。それは神の力が働く故に生まれるということでした。不思議だと言ったのは、このことです。神の力でそうなるのであれば、わざわざ予告は必要ないのです。反対に、あなた次第だというのであれば、予告は必要です。あの時、予告してくれたからこそ、信じて頑張れましたとなるでしょう。しかし、ここに神の思いがよく表れていると思います。天使がマリアに伝えた言葉があります。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(1:28)。「主があなたと共におられる」とは神は私たちと一緒にいてくださる神であり、神は私たちと一緒にいたいと思っておられるということです。しかし、それは単に同じ場所にいたいということではありません。 心を一つにしたいということです。 だから、予告をされたのだと思います。もちろん、神は人の許可がなければ働くことができないわけではありません。神は人と心を一つにしたいんです。だから、予告をされる。そしてマリアは、それを受け入れました。しかし、ザカリアはどうか。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています」と天使に答えます。そんなことはあり得ないという答えです。彼は受け入れませんでした。すると天使に言われます。「あなたは口がきけなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。 ザカリアは口がきけなくなりました。周りの人は「手振りで尋ねた」とあります。耳も聞こえなかった。彼は子どもが生まれてくるまで、ひたすら神様の言葉に心を向けた、何度も天使の言葉を思い巡らしたと思います。神と心を一つにする。そのためには自分の言葉にも人の言葉にも沈黙する、ということが必要なのだと聖書は伝えています。私たちの周りには人の言葉が溢れていますし、頭の中にも自分の言葉が溢れています。考えるのを止めようとしても次々に頭の中に言葉が浮かぶ。それを退けることの大切さを聖書は教えてくれているのだと思います。本当の沈黙の中で出会う神の言葉があるのだ、と。

ザカリアは子どもが生まれてからも口はきけないままでした。口を開いたのは彼が息子にヨハネと名前をつけたときです。この名は天使に名付けるように言われていた名でした(1:12)。そのとき、彼の口は開き、賛美を始めたのです。自分の言葉も人の言葉も、神を賛美するようにはさせてはくれません。時に、自分の言葉は、自分自身を縛り上げてしまう力を持っています。しかし、聖書の言葉は、そこから自由にしてくれます。1年を振り返って、思いがけない出来事が新しく始まったかも知れません。あるいは、始まろうとしているかも知れません。だからこそ、言葉を語る事も人の言葉を聞くことも辞めたいと思います。一週間に少しでも良い。神の言葉だけに心を向ける時を持ちたい。私たちには、それが必要です。