言は肉となった 上竹裕子先生 ヨハネによる福音書1章14-18節

説教要旨 12月29日 録音


主日礼拝「言は肉となった」上竹裕子先生


ヨハネによる福音書1章14-18節

クリスマスの神秘を、ヨハネは次のように語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。神の言なるキリストが、「肉」をまとってこの地上に来られた、と。古来教会はこれを「受肉」という特別な言葉で伝えてきました。「肉」とは、特定の肌色、輪郭、重さを持つ、血の通った人間を意味します。 「受肉」はクリスマスに留まる出来事ではなく、主イエスが生涯にわたる歩みの中で実現されたものです。主はその言葉の通りに生き、そして死なれました。 あるとき、主は言われました。「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」(マタ5:43~44)と。不可能に思える言葉です。しかし、主は事実その最期に、十字架上で祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。主は自分を十字架につけた人々を愛することをやめませんでした。この一部始終を見ていた人は、こう告白せずにはいられませんでした。「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)。後に弟子たちも気づきました。「ああこの方こそ、人となった神の言なのだ」と。ヨハネはこのことを福音書に書き留めました。 わたしたちの歴史の中で、信仰者のモデルとされてきた多くのキリスト者がいます。その人々の生き方の手本を通して、聖書の鍵となる言葉に光を当てることができると、カトリックの神学者ハンス・フォン・バルタザールは言いました。彼は、キリスト者たちの全生涯はしばしば、聖書の一つの節か一つの物語を生きたものとしてみることができると言います。 例えば、アメリカの公民権運動の指導者となった牧師、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、旧約の預言者アモスの言葉を説教しました。「正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ」(アモ5:24)。彼は身をもってこの言葉に生きました。コルカタのスラム街で「死を待つ人々の家」をつくり、貧者の中の最貧者に仕えたマザー・テレサ。彼女は、あるとき主イエスの声を聞きました。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタ25:31~46)。マザーは、その生涯を「最も小さい者の一人」と共に歩み続けることにささげました。 歴史の中に現れたこれらの模範的なキリスト者の足跡は、今もこうしてさまざまなところで語り継がれています。彼らは確かに、み言葉の受肉として、小さなキリストとして生きました。歴史の中の受肉とは、しかし、十年に一度現れるか否かの小さなキリスト(聖人)を発見することなのでしょうか。受肉した言とは、ごくたまに現れて囁く亡霊のようなものなのでしょうか。そうではありません。聖書が語るのは、今、「わたしたちの間」に起こる受肉なのです。わたしたちは、むしろ、共同体として受肉した「キリストの体」を形づくるよう呼びかけられているのです。 主イエスの使徒パウロは、わたしたちのこの地上にある教会を、「キリストの体」であると言い表しました(Ⅰコリ12:27)。神は「受肉」という比類のないみ業を、「キリストの体」なる教会の中で継続されるのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。この出来事は個人的な出来事であるよりも、「わたしたちの間」の共同体の出来事です。さらに、わたしたちの間に「住む」、「生活する」と言われます。神の言が「キリストの体」なる教会のうちに、手として、足として、口として、本当に生きて、生活しているかが重要なのです。 聖書が今日、わたしたちに伝える「神の言の受肉」とは、何よりもこの共同体の中で、週ごとにみ言葉が啓き示されることです。そしてこの場所で、み言葉の実践を互いに語り合い、学び合うことです。あなたの掌を見てください。「それ(掌)は、わたしである」と主は言われます。隣の人の手を握ってください。「それ(手)は、わたしなのだ」と主は言われます。信じられないかもしれませんが、わたしたちの体は、主の手足であり、口なのです。この体をもって、それぞれの持ち場に遣わされます。この体を自分のものと見るか、主のものと見るのか、それが今日一日のわたしたちの歩みを定めるのです。