マリアの困惑と決心 石丸泰信牧師 ルカによる福音書1章26-38節

説教要旨 12月1日 録音


「マリアの困惑と決心」 石丸泰信牧師


ルカによる福音書1章26-38節
アドベントを迎えました。教会の暦では新しい一年の始まりです。しかし、今の季節はむしろ、この1年を振り返ることの方が多いのではないかと思います。キリスト者の歴史の見方は2つあります。一つは直線的。今年は主の時2019年。来年は2020年という様に戻ることのない歴史。いわば、救済史です。しかし、教会の暦は円環的です。今年迎えたアドベントは去年にもありました。この二つの時の中を生きることが大事なのだと思います。マルコ福音書は独特な終わり方をしています。主イエスの「ガリラヤで会おう」という言葉で終わる。ガリラヤは最初に弟子たちが主に出会った場所です。つまり、読み終わると、もう一度そこに戻って読み返すことを求めているのです。何度も読むとき、最初には分からなかった主の言葉が深く理解できるかも知れません。それと同じように、新しい直線的な1年を経験して、再び、アドベンを迎えることは、今の自分を深く知ることに繋がっていくのだと思います。
ルカ福音書の始まり方も独特です。最初を読むとテオフィロという人物に宛てた手紙だということが分かります。想像してみてください。ある日、手紙が届いて、開いてみると、今日の聖書の言葉が書いてある。このアドベントの時期に、そういう手紙が届いた理由は何だろうかと思います。
マリアは天使に「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言われ、出産を予告されます。マリアには婚約者がいました。それなのに、夫ではない子どもを宿すと言われる。とても、喜べなかったと思います。ユダヤは小さな町でした。待っているのは人々からの軽蔑の視線です。けれども、彼女は「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と受け入れました。どうしてこう言えたのか。もちろん、マリアが小さな頃から聞いてきた旧約の預言。その成就に自分が選ばれたのだと受けとめた。そう考えることも出来ます。しかし、本当は、震えながら、そう答えたことをもう後悔していたのではないかと思います。なぜなら、マリアは、このあと、急いで「親類のエリサベト」の家に行くからです。同じ天使の受胎告知を受けた女性。マリアにとって唯一の理解者と思ったのでしょう。彼女はそこで3ヶ月の間、滞在したと言います(1:56)。別の言い方をすれば、3ヶ月、彼女は一人ではいられなかったわけです。主の言葉を受け入れられるようになるまでの3ヶ月、二人は何を語り合ったのだろうかと思います。
主の祈りに「御心が天になるごとく、地にも」という祈りがあります。すごい祈りです。本当は、神の御心が成るよりも、すべてのことが、わたしの願う通り、順調に進みますように、と祈りたいのがわたしたちではないかと思います。けれども、すべて自分の思い通りになったら、どうなるかと思います。自分の願いを邪魔する人をどんどん消します。そして、誰かの同じ願いによってあなたも消されてしまう。世界から人はいなくなってしまいます。だからこそ、主は主の祈りを教えたのだと思います。
その御心は、どこにあるのか。かつて御心とは、2つの道があれば、辛い選択の方にあると考えていました。主イエスであれば、そちらを選ぶからという話を聞いたことがあったからです。けれども、ある時、友人にすっぱり否定されました。「そんなことあるか。そんな単純なものではない」と。その友人は、いつも進んで苦しい方を選ぶような性格でした。だからこその否定なのだと思います。御心はどこにあるのか。それはずっと分からないものなのだと思います。辛い方が御心という考え方も、実は単なる思考停止です。本当は、わからない中でいつも考えないといけない。
旧約のダビデの言葉にこのような言葉があります。「神がわたしをどのようになさるか分かるまで、わたしの父母をあなたたちのもとに行かせてください」(サムエル上22:3)。わたしたちもダビデを真似て良いのだと思います。「神がわたしをどうのようになさるか分かるまで、もう少し、様子を見ましょう」と。わたしたちは待つのが苦手です。だからこそ、このアドベントがあるのだと思います。早急に結論を出してしまったことを振り返り、もう少し、待ってみようと思い直すことができます。
マリアは主の御心だと飲み込むまで3ヶ月掛かりました。そして、その意味が分かるのは30年後、十字架の場面です。おそらく、彼女の予想とは違っていたと思います。ある牧師は、とうとう神の御心の人と出会ったといって恋人とのお付き合いを始めたそうです。けれども、1年後、あなたの愛が分からないと言われ、終わります。その牧師は、御心ではなかったのですかと神に訴えたそうです。しかし、後になって気が付きました。彼女と付き合ったのも御心だったし、お別れしたのも御心。その中で、自分がどれだけ愛のない者かと知らされたのも御心。神よ、愛するとはどういうことですかと尋ねたのも御心だったと。
お言葉通りになりますように。御心が成りますようにという祈りは、自分の一つひとつの出来事に中に、自分の思いを超えた神の業が芽吹くことを信じて待つことが出来ますようにという祈りなのだと思います。