信じているから、やってみよう 小松美樹伝道師 列王記下5章1-14節

説教要旨 11月10日 録音


合同礼拝(主日礼拝)「信じているから、やってみよう」小松美樹伝道師

列王記下5章1-14節
いつも教会学校に来ている子どもたちと一緒に礼拝を捧げています。教会学校でも主日礼拝でも、今は同じ聖書の箇所で、旧約聖書を読んで礼拝をしています。

今日は、生き方が変わった人の話です。軍司令官のナアマンは国との戦いで勝利して、国の一番偉い人に気に入られていました。しかしナアマンには重い皮膚病がありました。軍司令官という力と強さを持ちながら、皮膚病で全身を包帯で巻いて生活をしていました。映画のもののけ姫にはハンセン病の人が描かれ、全身包帯で覆っています。病により、周りの人々から人として扱われないような中、村を収める人に匿われ、役割が与えられ、人間として扱ってもらえたことを話している場面を思い出します。

イスラエルで捕虜にした少女から、ある預言者のところへ行けばきっと病を治してもらえるという話しを聞いて、預言者エリシャに会いに行きました。エリシャの家に来てみると、なぜだかナアマンは怒っています。エリシャは家から出てこないで、使いの人がナアマンに、「ヨルダン川で体を洗いなさい。そうしたら治る」と伝言しました。ナアマンの怒るのもわかる気がします。これまできっと沢山のお医者さんにも診てもらってきたのだと思います。治したくて一生懸命だったから。友人でもなんでもない、召使いの女の子の言葉に、望みをもって来てみたのに、エリシャは会ってもくれないし、見もしない、触りもしない。しかしエリシャがナアマンに対して冷たい態度だったかどうかより、もっと大きなところに目を向けて行くのがこの出来事です。救いは自分が思いとはもっと違うところから来るということです。ナアマンは、そんなわけあるか!とエリシャの言ったことを信じないで、やろうとしませんでした。しかし、そこにはナアマンの家来の「できないことではない。やりましょうよ!」という言葉がありました。ナアマン一人ではできなかったのです。信仰生活とはそういうものだと思います。

軍司令官が部下の意見聞くのはすごいことだと思います。信頼されていたし、信頼もしていたのでしょう。そしてナアマンの病は癒されました。思いもかけない方法で救われました。自分の思いがけない形で救いがやってきた。ナアマンはそのことを後から知ったのです。私たちは今知らされています。自分の考えとは違うところから、新しいものが見えてくるということを。

何をやっても変わらなかった。治したくて努力した人程そんなはずがないとわかります。どれ程頑張ってきたか、治療してきたかと思います。例えば、3日間飲まず食わずで過ごせと言われた方がまだ効果がありそうな気がする。しかしナアマンが言われたことは、7回やりなさい。お金もかからず、誰でもできる方法です。それをやらないというのは馬鹿だなと思うことかもしれません。けれども私たちも同じかもしれません。嫌いな相手で話したくない、顔も見たくない、そんな人に7日間、自分から挨拶しなさいと言われます。7日間毎日できたら、きっとその先も、嫌いだとか考えずに挨拶できるようになる。それができるようになったら、それは救いだと思います。言われたことをやってみるというのは、そうゆうことだと思います。救いは、手応えを感じることばかりじゃありません。

このあとナアマンは日常に戻ります。ナアマンの日常は異教徒の中の生活です。ナアマンは仕事で、王様に付き添ってリモンの神殿に行ってひれ伏す時がある。私たちも礼拝の後日常に戻ります。このことは大人の方が気になると思います。私たちも町内会での仕事や家族のために神社に行くこともあるでしょう。主なる神を信じたからと言って、実家の神棚を壊すこと、他の神々に祈る家を離れる。それはできないけれど、このことについて主が許してくださいますようにと言っています。エリシャもナアマンに対して安心して行きなさいと、祝福の言葉で送り出します。ナアマンが感謝して主を賛美したことが欠けることはありません。日曜日に仕事をする時にも礼拝する思いで仕事をすることができると思います。同時に私たちが礼拝を大切にしている、その意味は、神様のささやくような小さな語りかけを聞く時です。油断すると聞きもらし、簡単に無視することもできてしまいます。手を止めて、静かにしなければなりません。神の示されることに耳を傾けて行きましょう。