地の塩、世の光 石丸泰信牧師 マタイによる福音書5章1-16節

説教要旨 11月3日 録音


永眠者記念礼拝(主日礼拝)「地の塩、世の光」石丸泰信牧師 

マタイによる福音書5章1-16節
永眠者を記念するこの礼拝において、まず憶えたいことは、永眠者名簿に記される方々が、わたしたちと同じように礼拝者であったということです。彼らもまた、日曜日には、同じようにこの場所で讃美歌を歌いました。なぜわたしたちはこうして変わらず礼拝するのでしょう。ここに他の場所では聞くことのできない言葉、出会うことのできない出会いがあるからだと思います。
マタイ福音書から、主イエスの最初の説教の一節を聞いています。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。そこに集まった大勢の人に目を向け、主は「幸い」を宣言されます。ある人は、これを「メシアとしての就任演説」だと言います。就任時にぜひこれは伝えておきたいと思う言葉。それが、主イエスの幸いの宣言だと言うのです。
この説教は、当時の人々に、また信仰の先達たちに、そして今を生きるわたしたちに向けられた言葉です。この言葉を聞くとき、主が信仰の先達たちをどのようにご覧になっていたかを覚えることができます。主は言われました。「あなたがたは幸い」と。そして、「あなたがたは地の塩である・・・世の光である」と。
「塩」も「光」も、無くてはならないものです。しかし、どちらも普段は感謝するほどのものではありません。無くなってみて始めてありがたさを感じます。塩が無いことに気がつけば料理の手は止まります。突然の停電に遭って初めて急に不安になります。主イエスは、「あなたも同じ」と言うのです。いつもは目立たないけれども、いなくなって初めてその存在の大きさに気づかされる。ないと困る。それが彼らであり、あなたたちなのだ、と。離れてみて、失いかけて、初めて大切だと気づく存在があります。
ある人が次のような話をしていました。宝石は光がなければただの石ころなのに、人は宝石ばかりを見、光を賛美しない、と。光を気に留める人はいません。しかし、主イエスは、わたしたちがその光なのだと言うのです。その役割は目立たないけれども、人のよさを引き出す光なのだ、と。これが主の最初の宣言でした。しかも、主は「地の塩」「世の光」なのだと言います。あなたがこの地上に必要な塩。この世の良さを引き出す光ということです。聖書は、時に言い過ぎではないかと思うほどの言葉でわたしたちに語ります。聖書の言葉を知れば知るほど、自分の現実とは遠いように感じ、共感できなくなってしまうことがあります。
それでも、主はわたしたちに言われるのです。あなたが自身をどう思おうが、あなたは無くてはならない地の塩であり、他者の良さを引き出す世の光なのだ、と。
嘘だと思うかもしれません。わたしたちは褒め言葉を受け止めないのに、貶されても不当だと訴えます。写真を撮れば「本当のわたしではない(写りが悪い)」と言います。でも、本当の自分をどれほど知っているのでしょう。「本当の自分」を知っているのは、造り主です。
わたしたちはなぜ礼拝へ集うのか。本当のところは自分でもわからないのだと思います。自らの意志に勝って神が招いてくださっているからです。神が必要とされているからです。もしわたしたちが祈らないなら、誰が家族のために、同僚や友人のために祈るでしょう。神はその人たちのための光をわたしたちの中に見ています。
だから、主はわたしたちに向かって「幸いだ」と言います。これで苦難がなくなるわけではありません。普段、わたしたちは嬉しいことがあれば幸せ、辛いことがあれば不幸と言います。しかし、主の言われる幸いは状況に左右されません。悲しむ者が幸いなのは、一緒に悲しむ方が目の前にいるからです。渇く者が幸いなのは、満たすために戦われる方が目の前にいるからです。
台風からの3週間、わたしたちはどこから見ても幸いと言えない貧しさの中にいました。しかし、わたしは毎日幸いを感じていました。共にいてくれる人たちがあり、その背後に祈りがあることを知らされているからです。すべて主が出会わせてくださいました。
今、記念する方々は主の眼差しの中に、「地の塩」「世の光」として生きました。何によっても押し流されることのない、主の幸いを生きました。確かな主の言葉を聞き続けました。この言葉を、わたしたちも聞き続けたいのです。