新しい出来事の初穂 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙15章20-34節

説教要旨8月4日録音


聖餐礼拝(主日礼拝)「新しい出来事の初穂」石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙15章20-34節
今日の箇所は、歴史的誤訳と言われた言葉を含みます。「あなたがたを恥じ入らせるためです」という言葉です。本来、「恥じ入らす」ではなく「尊敬する」と翻訳すべきなのに、宗教改革者のルター以降「恥じ入らす」と訳されるようになったと言われています。しかし、語源を辿るとは「見直す」という意味で、パウロはコリント教会の人々を見直したのです。評価低く見直せば「恥」。高く見直せば「尊敬」です。両極端な言葉ですが、語源をたどると一つなのです。文脈を見るとパウロの論調は穏やかでないため、率直に「恥ずかしい」との翻訳で正しいでしょう。いずれにしても強い響きを持っています。
コリント教会では復活に対し懐疑的であるばかりか、復活を信じてもいないのに死者と再会するために洗礼を受けようとする人たちがいたということで、パウロは語調を強めて語ります。キリストの復活を「初穂」と表現します。店に初鰹が並ぶと、今年もこの季節が来たのだと感じます。同様に「初穂」は、これから収穫が続くことの最初の知らせです。キリストの復活は、全く新しい出来事の始まりであり、それが続くことを知らせるのです。M・ルーサー・キング牧師が指導した公民権運動は、黒人が差別されて当たり前の社会を大きく変える出来事でした。差別がすぐになくなったわけではありませんが、この出来事がこれまでの常識を覆す決定的な「初穂」となりました。
神学校時代の先生が、あるときこんなことを言っていたのを思い出します。「ああ、どうしてわたしは貧乏なんだろう」。続けて言いました。「一人ひとり違うって当たり前。貧乏な人も、お金持ちの人もいる。それなのに、どうしてと思うのは、人は神の前に平等だということを体が知っているからだと思う」と。貧しい生き方を選んだと頭で理解していても、聖書を開くと体が思い出すというのです。神の前に等しく造られたはずなのに「なぜ」と疑問を持つ。これまでの当たり前の在り方に違和感を持つようになり、もう後戻りできなくなる。全く新しい出来事が自らの内に入ってきたからです。聖書はそれを「初穂」と表現します。
当時、ヘレニズム世界では人の体は死ねば滅びると考えられていました。ギリシア哲学の霊肉二元論の影響を受けた人たちは、精神的なものを重んじ肉体を軽視しました。パウロはコリント教会の人々の生活について、娼婦や結婚、食べ物等、肉体に関することをたびたび語っています。信仰は心の問題ではないと言っているのです。体が痛むと心まで落ち込み、心が沈むと起き上がれなくなることを、わたしたちは知っています。しかし、わたしたちはいつも心と体、精神と肉体のように、物事を2つに分けて考えるのです。
隅谷三喜男という人が『日本の信徒の神学』の中で「2階建ての信仰」ということを語っています。2階は牧師の書斎がある場所です。信徒は1階で生活にしているのに、牧師の説教はいつも2階の書棚から出てこない。2階で人を愛することは簡単だけれども、1階に降れば愛することが困難で、痛みを伴うことがわかるというのです。また、ある人は「二間の信仰」ということを言いました。信徒の住む1階には二間あって、普段はリビングで過ごし、日曜日になると奥の礼拝部屋に入る。しかし、月曜日になると、その扉を閉め、礼拝を忘れたような毎日を過ごす、と言うのです。
こうして頭と体、礼拝と生活を切り分けて生活しているわたしたちに、パウロは2階も二間もないと言っているのです。愛することは切り分けず、線を引かないこと。差し伸べた手を引っ込めず、重荷を負うことです。疲れることです。それゆえ、パウロは「日々死んでいます」と言うのです。しかし、だからこそ、神はわたしたちのこの体を朽ちさせはしないと言い、主はご自身の食卓でこの体を養うと言われます。「明日は死ぬ身だから」「心の問題だから」と言う者に向かって、パウロは「正気になれ」と言います。わたしたちの体は、神が愛し、その生活を支え、復活を約束してくださった体だからです。この約束を知らない者のように生きるのではなく、この約束にふさわしいプライドをもって歩みなさいと語ります。神がわたしたちを愛し、わたしたちのこの体が本当に用いられることを期待してくださっているからです。