復活の体 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙15章35-41節

説教要旨8月11日録音


主日礼拝「復活の体」石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙15章35-41節
人間の最大の関心は死だ、とある人は言いました。老後や病気への関心は死に通じます。しかし、死ぬまでのことに関心はあっても、死後のことに関心を払う人はほとんどいません。人の最大の無関心は死であるとも言えるかもしれません。近年、死後の散骨を希望する人が増えています。遺族に墓を負わせたくないという配慮かもしれませんが、うがった見方をすれば死後の体に思いを致すことがないのです。
コリント教会の人々が生きた世界では、ギリシア哲学の霊肉二元論の影響を受け、魂の不滅という思想が一般的でした。わたしたちも体が悲鳴を上げていようと、いつまでも自分の心は若いつもりに思いますし、死後についても、墓の中に納められても霊は天にいるなどと考えます。しかし、実際、体に問題がないのに心が沈んで起き上がれないという苦しさを経験します。心(霊)と体は一つだからです。自分のイメージと事実は異なるのです。だから、パウロも「復活の体」について語るとき、肉体は滅びるが霊は生きる、と考える人々に向かってパウロは「愚かな人だ」と言います。
わたしたちが、死んで灰になった体がどうやって復活するのかと考えているからです。わたしたちは、自分の分からないことについて、自分の常識の範疇でしか考えられません。また、人に対してはだれもが納得できるような説明を求めます。しかし、そうであれば、信仰は必要ないわけです。キリスト者であっても、命については信仰的に考えるのに、死については常識的な思考をします。神に関係あるものとないものを分けて考えます。聖書が語ることよりも自分の思い描くイメージを信頼することに対して、パウロは「愚かな人だ」と言うのです。つまり、パウロは神の業を見て考えよと言いたいのです。
パウロは語ります。「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です」。蒔くと、種は朽ちます。しかし、種から想像もできないような命が生まれます。わたしたちの体もそれと同じだと言うのです。コリントの人々にとって、死者の体は葬りの悲しみの中にあります。しかし、パウロは神の業に照らし、種まきのイメージに結び付けて語ります。種蒔きは、悲しみではなく希望の営みだからです。
蒔いた種から出る新芽はまったく別の形です。しかし、種と芽には連続性があります。にんじんの種を蒔けば、トマトの芽が出ることはありません。復活の主イエスの体には十字架の傷を残しながらも、しかし、復活の主を目の前に見て気づかない弟子たちもありました。復活の体は、蒔いた種とは異なるもののようで、しかし同時に連続性を保ちます。
パウロはこうも言います。「神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」。復活するとき、どのような形かはわかりませんが、一人ひとり、その人だとわかる体を持つと言います。もしも復活の後、体は不要、霊だけで良いと言うならば、どうやって語り合ったり食事をしたりすればよいのでしょうか。体なしに人格的な関係を持つことができるでしょうか。わたしたちが今、わざわざ約束して人に出会うのは、一緒に食べたり、見舞ったり、触れたりするのは、人が生きるのには体が必要だと感じているからではないでしょうか。
復活の体を否定することは、今の体の軽視につながります。そうであれば、反対に、復活の体を信じることは、今の体を大切にすることにつながるのだと思います。
パウロは地上の体と天上の体、つまり、現在の体と将来の体があると語ります。さらに、太陽と月、星の輝きがそれぞれ違うように、現在の体と将来の体の輝きは異なると言います。重要なことは、現在の体も輝いているのだということです。
ある教え子は望んだ学校に入れず、うつむいて過ごしています。本当はどこにても楽しいことや生涯の友を見つけられるはずです。すぐそこにあります。でも、ここには自分のいるべき場所ではないと信じてしまっていては、その友に気がつけません。それと同様に、現在の自分には輝きがないと信じてしまっていては、神が今、与えてくださっているものに気づくことができないのです。
わたしたちにとって体はあって当然で感謝などしません。その恵みに気づきません。体を大切にするとは、健康至上主義のことではありません。自分の体が抱える弱さ、不自由さを、なお否定せず、受け止め、神が与えられた輝きに気づくことです。あなたがたは輝いている、だから、復活の体も輝くのだと聖書は約束するのです。