沈黙の時 石丸泰信牧師 ゼファニア書3章14-18節、ルカによる福音書1章5-25節

説教要旨 12月16日録音


主日礼拝 「沈黙の時」 石丸泰信牧師


ゼファニア書3章14-18節、ルカによる福音書1章5-25節

 この福音書を書いたルカは「わたしたちの間で実現した事柄」(1:1)を伝えるために筆を執りました。主イエス・キリストの十字架と復活という福音の事柄です。それをどのように描き始めるか。ルカはクリスマス(主イエスの誕生)よりも、もっと前の出来事から始めます。洗礼者ヨハネの誕生の予告。つまり、洗礼者ヨハネの父、母の物語です。
 洗礼者ヨハネの父となるザカリアに天使が現れ、男の子の誕生を告げたとき、彼は神殿の聖所にいました。ザカリアは祭司です。しかし、いざ天使に会うと恐怖の念に襲われました。ルカによれば、クリスマスの始まりは一人の正しい老人に訪れた喜びの知らせです。しかし、それは聞いて信じた人の物語ではなく、信じられず、口が利けなくなってしまった人の物語です。大きな救いの前夜が、ここに描かれています。
 子どもの誕生はこの夫婦の積年の願いでしたが、ザカリアは言います。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。ザカリアは自分の常識からしか物事を観ることができません。ザカリアは信じられず、口が利けなくなりました。この出来事の後、ザカリアは「身振り」「手振りで」(1:62)会話するしかありませんでした。口が利けないばかりでなく、耳も聞こえなかったのだと思います。おそらく祭司の務めから離れ、静まりの中に身を置きました。しかし、この沈黙は、悔い改めの始まりとなりました。聖書のいう「悔い改め」とは、反省ではありません。向きを変えることです。
 犯罪者の更生教育にも用いられる「内観法」という心理療法があります。内観のプログラムは、一週間、何もないところで過ごし、自らの生い立ちや過去を顧みて書き出していきます。内観で、虐待事件を起こした母親が、幼少時、自分は親に大切にされなかったと語ることがあります。しかし、丁寧に問い直す過程で、親は自分のためにいろいろなことをしてくれていたことに気が付くというケースがあります。問題を誰かのせいにし、因果に囚われている状態から解放されるのには、自身を見つめ直す時間が必要です。わたしたちは自分の価値観や常識を正しいと信じているので、それ以外のものが信じられません。造り上げられた価値観や常識が邪魔をして、神の言葉を受け入れられないのです。ここでザカリアは沈黙しました。自身の視点から向きを変え、神の視点で見る者とされたのです。
 星野富弘さんという詩画作家がいます。彼は体育教師でしたが、事故で首から不自由になりました。事故後、非常に苦しい入院生活を送り、4年目に始めて車いすで外に出かけたときのことを、こう書いています。「わたしは、自分の足で歩いている頃、車いすの人を見て、気の毒だと思った。…わたしは、なんて独りよがりな、高慢な気持ちをもっていたのだろう。車いすに乗れたことが、外の出られたことが、こんなにも、こんなにもうれしいというのに。初めて自転車に乗れたときのような、スキーを履いて、初めて曲がれたときような…でも、今、廊下を歩きながら、わたしを横目で見ていった人は、わたしの心がゴムまりのように弾んでいるのを、たぶん、知らないだろう。健康なときのわたしのように、憐れみの目で車いすの横を通ったのではないだろうか」。病気や怪我は、本来、幸不幸の性格を持っていない。それなのに病気や怪我に不幸という性格を持たせるのは、人の先入観や生きる姿勢のあり方ではないだろうか、と星野さんは語ります。一般に不幸といわれる事態の中でも、どんな境遇でも幸せや喜びは小さくなったりしない。星野さんは、このことがわかるまで、4年という沈黙のときを過ごしました。
 ザカリアは長い沈黙の後、最初に口を開いたとき、神を讃美しました。どうしてかと思います。彼はなぜ自分は信じられなかったのかと自問しませんでした。信じられない自分を沈黙の中で見つめ続けたと思います。しかし、その神の言葉を信じられない者である自分を、人間を、なお、用いて神は御業を果たそうとされる。その偉大さへの賛美だと思います。そして、この出来事に続く、さらに大きな出来事がクリスマスです。そして、同時にクリスマスは大きな救いの「始まり」です。沈黙を超えた先に、それを「始まり」としてを受け止めることができるのです。