約束の日 石丸泰信牧師 エレミヤ書33章14-16節、ルカによる福音書21章25-36節

説教要旨 12月2日録音


主日礼拝 「約束の日」 石丸泰信牧師


エレミヤ書33章14-16節、ルカによる福音書21章25-36節
 教会暦の新しい年が始まります。このとき主イエスは命じられます。「身を起こして頭を上げなさい」と。ルカによれば、これは主の十字架前の最後の説教です。エルサレムには改築されたばかりの新しい神殿がありました。ヘロデ王の巨大な権力によって造られたこの神殿には、過越祭の間近で多くの奉納物がささげられていました。人々は神殿を見惚れて口にします。「なんと見事な神殿」。「なんと多くの奉納物」。これに対して主は言われました。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(21:5-6)。神殿の柱一つも残らない。あなたがたも滅びる、とまで主は言われます。
 新しく会堂建築をしたある教会の献堂礼拝で、この箇所を説教した牧師がいました。完成してひと月も経たない礼拝堂には、会堂建築のために尽力した大勢の人たちが集まっていたそうです。やっとの思いで建てた会堂で、人々は「この教会は滅びる」という言葉を聞いたのです。事実、エルサレム神殿は、紀元70年のエルサレム戦争でローマによって破壊されました。どれだけ多くの献金や労力、また祈りが献げられた建物だとしても、やがては滅びます。けれども、これは主の脅しではありません。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。このことこそが重要です。初代教会の多くはもう現存していません。しかし「わたしの言葉は決して滅びない」。わたしたちは今、同じ主の言葉を聞き続けています。
 この教会の建物はやがて滅び、わたしたちも滅びます。にもかかわらず、主は言われます。「身を起こして頭を上げなさい」。「滅び」がすべての終わりではないからです。ここでは「滅び」を「天体が揺り動かされる」と表現しています。普遍的秩序の象徴でもある「天体」が揺らぐということは、この世界の信頼できるものが失われるということです。「天体」が揺らぐ。確かだと信じていたことが崩れ去るような経験をすることがあります。信頼していた人、信頼していた事柄に裏切られることがあります。その現実から逃げるように放縦や深酒の生活に身を任せてしまうことはあるかもしれません。それを聖書は「心が鈍く」なると言います。そればかりが気がかりになり、周りがよく見えなくなる。何に信頼したらよいかわからなくなる。その時、わたしたちはうなだれ、滅びゆくものに負けてしまいます。しかし、主は「そのとき、人の子が…来る」と言われるのです。だから「身を起こして頭を上げなさい」。救い主は来られる。だから諦めなくてよい。主は、「わたしの言葉は決して滅びない」、滅びゆくものよりも強いと言われるのです。
 聖書は、最も良い日は将来にあると約束します。終わりの日は破滅ではなく、キリストとこの世界との結婚式だと言います(ヨハネ黙示録19章)。わたしたちは招待状を持ち、その日を待っています。ある10歳の少女が母親に尋ねました。「ママが生きていて最高の日と思ったのはいつ?」母親は一瞬考えて答えました。「ママが小さい頃、ママのお父さんは兵隊だったの。ある日、お父さんが戦争で死んだと知らされた。その日の夕方、ママはお母さんと一緒に夕日を見ていた。そうしたら、向こうから埃を上げてだれかが走ってきた。それを見て、お母さんはママを連れて走り出したの。その人はお父さんだった。ママたちはお父さんの腕に抱きついたけど、掴んだのは服の袖だった。お父さんは戦争で腕を失くして、体は傷だらけだった。今まで生きてきて最高の日はその日よ。これから生きていて最高の日はイエスさまが来られる日かな。そのとき、イエスさまもきっと傷だらけ。その傷を見れば、私たちのことをどれだけ愛して、どれだけ戦ってくれたのかがわかるのよ」。
 「アドベントadventus」という言葉に「待つ」という意味はありません。“ad”(前に)と“ventum”(来る)の合成語で「到来」や「出現」を意味します。わたしたちの「前に来る」のを、わたしたちは待っているのです。意味も知らずにクリスマスを飾り祝う人たちのことをわたしたちは笑うかもしれません。しかし、このクリスマスに、わたしたちが2千年前の出来事や過去のクリスマスを懐かしむだけなら、主に笑われてしまうでしょう。わたしたちには、将来を思う力は乏しいと思います。だからこそ、主は言われるのです。わたしは「来る」。「身を起こして頭を上げなさい」と。