旧約における神の言 石丸泰信牧師 イザヤ書55章1-11節、ルカによる福音書4章14-21節

説教要旨 12月9日録音


主日礼拝 「旧約における神の言」 石丸泰信牧師


イザヤ書55章1-11節、ルカによる福音書4章14-21節

「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない」。イザヤ書に収められるこの神の言葉を語ったのは、無名の預言者です。「イザヤ書」は預言者イザヤが書いた書物ですが、40章以降は「第二イザヤ」と呼ばれ、このイザヤとは別の人物による預言と言われています。実際にイザヤ書を開くと、40章以降の時代背景が明らかに異なります。

神に背き続けた神の民に審きが下り、イスラエルは外国の侵略に遭い、おもだった人たちが異教の地に連行されました。バビロン捕囚です。イザヤは神の審判を語りますが、同時に、この苦役に終わりが来るということも告げています。イザヤは、しかし、捕囚の終わりを見ることなく死にました。イザヤ書40章以降を記した無名の預言者は、その捕囚の終焉を見た人です。長い苦役の時がいよいよ終わり、神が来られる。かつてイザヤが語った預言が今実現する、と言って「第二イザヤ」が語り始めます。その言葉は、かつて語られた預言が成就した、ということに終わりません。このときのように神はわたしたちを救い出してくださる。人々は救い主を待ち望むようになりました。わたしたち教会は、主イエスこそがキリスト(救い主)として来てくださったことを信じています。

ある礼拝の中で、主イエスはイザヤ書を朗読して言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。わたしが神の言葉の成就だと語られるのです。福音書記者たちは、主イエスにまつわる多くの記事を収めたかったに違いありませんが(ヨハネ21:25)、旧約、特にイザヤ書の預言の成就という視点を意図して記事を選んだように思えます。例えば、主がサマリアの女と語り合う場面では、主ご自身がイザヤの言葉を語ります(ヨハネ4:14)。ヨハネはイザヤ書の「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」という言葉に立って、主の降誕から十字架を伝えます。その福音書を「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)、つまり言は天から地上に来られ、と書き始め、十字架上の主の最後の言葉として「成し遂げられた」(19:30)、つまり使命を果たしたという言葉を伝えています。

人々は十字架のメシアを受け入れることができませんでした。人々にとってのメシアは、偉大な王ダビデのような政治的、宗教的指導者でした。弱々しくローマ兵に連行される主を見て、皆が離れていきました。主はひとり十字架にかけられます。しかし、この十字架のメシアこそ第二イザヤが預言した救い主でした。イザヤ書53章に「苦難の僕」と呼ばれる詩があります。「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。…彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった」。後になって人々は、イザヤが預言したこの苦難の僕こそ、主イエスその方だった、と気づきました。

イザヤの預言がバビロン捕囚からの解放で終わらなかったのと同様、神の言葉の成就は、今も開かれています。「この聖書の言葉は、今日…実現した」という主の言葉を聞きながら、わたしたちは主が再び来るのを待ち望んでいます。2千年前のクリスマスに主が来られたことを喜びながら、同時に待っています。2千年前の出来事で世界のすべての問題が収束したのではありませんでした。主は再び来ると約束されました。その間を生きるわたしたちに、例えば「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という新しい掟をお与えになりました。また、聖書はこうも言います。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」(ローマ15:4)。忍耐を学ぶ。「愛は忍耐強い」(Ⅰコリント13:4)と聖書は言います。愛とは自己目的ではなく、誰かのために我慢することです。わたしたちは我慢したくない、損したくないと思います。しかし、わたしたちのために我慢してくださった方がいるからこそ、わたしたちは忍耐し、互いに愛し合うことができるのです。