ふさわしい心を 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章27-34節

説教要旨 3月10日 録音


主日礼拝「ふさわしい心を」 石丸泰信牧師

コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章27-34節
今日の箇所は聖餐式の式文とされている言葉です。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」。聖餐はそれ自体に力があります。聖餐に与る人間には何の資格も問われません。しかし、聖餐にはふさわしい受け方があります。信仰によって受けるということです。世々の教会は聖餐の食卓に与る信仰を大切にしてきました。
けれども、パウロがここで言う「ふさわしさ」はもっと具体的なことです。先に来た者は後の者を待ちなさい。富んでいる人は貧しい人と分かち合いなさい、とパウロ言います。富む人が貧しい人を待つことができないのは忍耐の不足です。しかし、貧しい人たちに「ふさわしさ」が問われないのかというと、そうではないと思います。貧しい人たちが、先に食べている人たちを訴えているとすれば、赦しが不足しています。互いに忍耐や赦しが不足し、聖餐の食卓を守れなくなっています。食卓の真の主人が見えなくなっているのです。聖餐に与る者の「ふさわしさ」とは、この食卓に招かれる主人を知っているということです。
「ふさわしくないままで」という言葉は、反省を促す言葉だと誤解されてきました。祈りの中でわたしたちは、いかに罪を犯してきたかを顧みます。自分がいかに主イエスの思いから離れているか振り返るとき、聖餐にふさわしい者だとは誰一人思えないでしょう。しかし、聖書は昨日までの自らの姿を反省して、それで初めて聖餐に与れると言っているのではないのです。
主イエスは次のような話をされました。ある家来が、返済不能なほどの莫大な借金をし、主人の憐みによって帳消しにしてもらったという話です。借金が赦された家来は、しかし、金を貸していた仲間に出会うと、捕まえて「返せ」と首を絞めます。それを知った主人は言います。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ18:33)。わたしは高速道路を運転していると、つい混んでいる左車線を抜けて追越車線を走り、左車線に割り込みます。自分が入れてもらうときは「すみません!」と思っているのに、自分と同じようなやり方で割り込んでくる車があると「なんだよ」と思ってしまう。しかし、その時に聞こえるのです。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と。自分がいかに主の言葉から遠いか、日常生活の中で思い起こします。そういう意味では、わたし自身は「ふさわしくない」者です。けれども、聖餐は主の前にその「ふさわしくない」者が招かれている驚くべき食卓なのです。
聖書は「あなたは反省して変わってからここに来なさい」、「ふさわしくなるよう頑張りなさい」とか「変われ」、「頑張れ」と言う書物ではありません。主イエスはキリスト(救い主)に「ふさわしい」姿であったでしょうか。むしろ、主は十字架を前に弱さや苦しみを隠されませんでした。主はここで、一つひとつのことを反省や頑張りではなく、神との対話で乗り越えていこうとする、本当の「ふさわしい」あり方をお示しになったのです。
ある講演会で小林正観という作家が知人女性から電話を受けたときのことを話しています。この女性は夫が脳腫瘍で余命2年と告知され「わたしはどうしたらよいでしょう」と動転しています。小林さんは冷静に答えました。「何が問題ですか」。「夫が助からないと言われたんですよ!」と言う彼女に尋ね返します。「あなたは新しい病院を紹介してほしいのですか。それとも自分を励ましてほしいのですか」。女性は考えた後、「落ち込むわたしを何とかしてもらいたいのだと思います」と答えました。小林さんはそれから彼女に残された夫婦の時間を大切にするよう助言しました。彼女の状況は何一つ変わりません。しかし、この対話を通して彼女は今の自分を確かめ、すべきことをわきまえたのです。わたしたちは、自分の中に救うことができる力があると思ってしまいます。けれども、実はそんな力はない。それなのに自分で救おうとするから、不安になる。神の恵みも見えなくなる。単なるパンとぶどう酒にしか見えなくなる。しかし、「助けてください」と主に祈りながら聖餐の食卓に向かうとき、わたしたちは自らを確かめ、また主が何を願ってこの食卓を備えてくださったのかを知ってゆくのです。