息吹は思いのままに 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章4-11節

説教趣旨3月24日録音


主日礼拝「息吹は思いのままに」 石丸泰信牧師


コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章4-11節
パウロは霊的な賜物の働きについてこう話し始めます。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなされるのは同じ神です」。どの賜物も同じ方に由来するとしながら、その方を同じ「霊」、「主」、「神」と3つに言い換えて語ります。霊は「賜物」として、主は「務め」として、神は「働き」として、わたしたちの間に現れると語るのですが、これは三位一体的な表現で、それぞれが相互に関わり合っているというものです。
よく教会では「賜物」という言葉を使います。パウロはここで「務め」も「働き」も、わたしたちを通して神が働かれる賜物の表れなのだと言っているのです。わたしたちにとって聖霊の働きが身近になるのは、奇跡的なことが起きたり願いが不思議な仕方で叶ったりしたときかもしれません。しかし、霊の働きはむしろ、どんなときにも神に信頼し、どんなことの中にも神の恵みを信じることができることなのだと思います。
パウロはさまざまな賜物を挙げ、聖霊は異なる賜物を与えられると言います。賜物の現れ方はそれぞれに違うけれども、それらは一つの霊からのもので、一つの目的に向かっていると聖書は語ります。一つの目的とは「全体の益となる」ことです。
「賜物」という言葉は、よく才能や適性と同義で使われます。しかし、聖書は「全体の益」ということを語ります。互いに仕え合うことが賜物を与えられている目的だと言うのです。ある人は、この賜物とは「人格」だと言いました。よい働きをするためには、能力よりも人格的な信頼関係の方がはるかに大切だと言います。わたしたちは何ができるかで賜物の価値を測りますが、それをどのように用いるか、何のために使うのかが重要なのです。調理学校に行けば包丁さばきは抜群に上手くなります。しかし、それを台所ではなく町中で振り回したらどうでしょうか。人を護るための武術を、脅すために使うとしたら。
賜物を能力としてしか見ないなら、自分は多くを持っていないと思う人もいるかもしれません。しかし、賜物は能力に限定されません。自分が劣等感を感じるものも、神はよいものとして与えているものです。
週日に学校で教えていますが、わたしはある特徴を持った生徒に慕われます。くせ毛の男子生徒です。わたしもくせ毛で、高校時代は髪の毛のことばかり気にしていました。髪がコンプレックスで、真っ直ぐな髪の人を羨ましく思いました。でも、わたしのことを愛してくれる人は、わたしがくせ毛であろうと関係なく、この欠点を含めて愛してくれているんですね。自分で自分の鏡を見て嫌だなと思っていたのが、その人が見ている鏡に映っている自分を見たとき、自分の欠点は気にならなくなりました。生徒はくせ毛をまったく気にしないわたしを見て安心するのかもしれません。わたしが生まれる前に、既に亡くなった祖父は音楽教師で、あだ名が「シューベルト」だったそうです。「縮れ毛がトレードマークで、それをいつもハンチングで覆っていた」とある文集に書かれていました。わたしも卒業した教え子から、「先生の授業が懐かしい。可愛いイラストとちりちりの髪の毛が懐かしい」というメッセージをもらって祖父のことを思い、くせ毛も悪くないと感じました。
才能は人を喜ばせますが、傷つけもします。しかし、欠点やコンプレックス、消したいような過去、そういったものは人を傷つけることはありません。むしろ、共感や励ましを与える大きな力となります。自分が「欠点」と思うものも賜物で、わたしたちがそれをどう用いるかなのです。霊は賜物を「望むままに…一人一人に分け与えてくださる」とあります。賜物には、それをお与えになった聖霊の意図があります。賜物を持っていると思う人はそれが何のためであるのか、持っていないと思う人はそれを満たしてくれる隣人がいることを思い出したいのです。人が独りで生きるべきならば、神は一人ひとりにすべてを与えたと思います。神はわたしたちが共に生きるために、互いに仕え合うように、それぞれに異なる贈りものをくださったのです。