イエスは主である 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章1-3節

説教要旨 3月17日録音


主日礼拝「イエスは主である」 石丸泰信牧師


コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章1-3節
「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」とパウロは言います。「霊的」と聞くと、何か特別な力を想像します。けれどもパウロがここで何よりも言いたいことは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」ということです。たったひとこと「イエスは主である」と言うことのできる人は皆、聖霊の賜物を受けていると言うのです。「自分には信仰がないのでは」と疑う人がいます。おそらく、信仰の実感が薄いのです。しかし、信仰は自分がどう感じるかではなく、神に信頼して歩んでいくことです。そのプロセス自体が聖霊の賜物なのです。
主イエスの十字架は、ユダヤの人々にとって神の呪いでした。この十字架の死が神の御業であったと信じない人たちが「イエスは神から見捨てられよ」と言う中、「イエスは主である」と言える人は、それだけで聖霊の賜物を受けている証です。信仰があるということは、改めてすごいことなのだと思います。
福音書には、その人がクリスマスに家畜小屋の飼い葉桶に生まれたという事実を伝えられています。しかし、その方を主と呼ぶのか、ただの人と見るのかは大きな違いです。わたしたちは飼い葉桶に真の人として生まれたイエスの生涯と十字架の死を通して、神を知ります。イエス抜きに神の思いを知ることはできないと信じています。
祈祷会で旧約聖書を読んでいますが、主イエスが語られたたとえの元ネタのような話がたくさん出てくるので、皆さん驚きながら言います。「主は手元に聖書を持っていないはずなのに、なぜこんなに聖書を知っているのか」と。それは聖書を描いた本人だからです。主は神の国を、まるでもう見ているかのように話す方です。そして、嵐で舟が沈みそうになると、嵐を叱りつけて凪にされる方です。イエスを見た人々は言いました。「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)。「権威をもって話すこの人は誰なのだろう」(ルカ4:31-)。「権威authority」という言葉の原義は「著者author」です。まるで創作者のようにこの世界のことを話すこの人は、いったい誰なのか。福音書記者は答えを知っています。このイエスは主である、と。
主イエスは半身不随の人を癒されたとき、その人に向かって「あなたの罪は赦される」と言われました(マルコ2:5)。人々は驚きました。罪を赦すことができるのは神だけです。主がその罪の被害者であるかのように「赦す」と言うので、これを聞いた人たちは「いや、お前は関係ないだろう」と思ったのです。主といつも一緒にいた弟子たちはどう思ったでしょうか。いつも一緒に食事をして、口ひげにパン屑をつけたまま談笑する姿なんかを見ているわけです。その主イエスが神であると信じられるのは、聖霊によることです。
パウロは聖霊を受ける前のことにも触れて語ります。主を信じる前には「偶像」に従って、無自覚にそれに仕えていた。しかし今、あなた方はイエスこそが主人であると知っている、とパウロは言います。「イエスは主」とは、主人であって皇帝や王ではないということです。偶像に仕えるとき、わたしたちに自由はありません。主はしかし、わたしたちに自由のない服従を求める方ではありません。聖書に登場する最初の人アダムとエバは、神との約束を破りました。それは神に与えられた自由によることです。神が求めることは、わたしたちが神の命令に従うロボットのように生きることではなく、自由意志によって神の思いを選び取って生きることなのです。
わたしたちは主イエスを十字架につけることができます。それは神がわたしたちに拒否する自由を与えたからです。主イエスご自身も、わたしたちを見捨てることもできました。しかし、主はわたしたちを愛することを、十字架の道を選ばれました。主は自由な思いの中で、わたしたちのために死ぬことを選んでくださいました。このプロセスにこそ愛があります。もしあの十字架が強制的に押し付けられただけのものであったなら、主御自ら選ばれた道でなかったなら、主の死は意味のないものになってしまいます。主がそうされたように、わたしたちが自由の中で自らの思いでなく、神の思いを選んで歩み始めるとき、それは聖霊による歩みなのです。