わたしに倣う者になりなさい 石丸 泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙4章14-21節

説教要旨 8月5日録音


「わたしに倣う者になりなさい」石丸 泰信 牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙4章14-21節

「こんなことを書くのは」とパウロは言います。手紙の最後のまとめの様な言い方です。「こんなこと」とはどんなことか。今までずいぶんな言葉が言われていました。あなた方は裸の王様のようだ(4:8)。あるいは、同じキリスト者であるのに、わたしは見せ物。しかし、あなたたちは観客席にいる。そこで喜んで手を叩いて見ている様ではないか(4:9-)。ずいぶんな皮肉が書かれていました。けれども「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子どもとして諭すためなのです」と言うのです。あなた方が大切だから。本当に大切なことに気が付いて欲しいから、とパウロは言うのです。

ここでパウロが言いたいことは「わたしに倣う者になりなさい」ということです。言い換えれば、わたしを手本にせよということです。ここで、テモテのことが紹介されています。直にパウロの後輩である指導者テモテがコリントの教会にやって来ます。彼を見ると「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせる」からです。

自分の人生の手本のような人はあるでしょうか。今の自分の姿。そこまでの道のりは全くのオリジナルだというのではないと思います。出会いがあり、手本があって今に至る。そういうものだと思います。わたし自身は人生の手本よりも信仰の手本のような人を思い起こします。先輩であるよりも年下の後輩の姿や言葉であることの方が多くありました。例えば、献金です。あるとき収入が昨年よりも下がることが分かり、献金の額を減らそうか考えていました。すると友人は言うのです。「え、石丸さん。献金は最後ですよ。他のものを削って削って、それでもどうしようもなければ最後に献金を減らす。余り物を献げているのではないのですから」。ハッとさせられる言葉でした。そして彼はその言葉の通りの生き方をしている人でした。他にも大勢の手本になるような人がいます。その点ではとても恵まれていると思います。けれども、彼らのようになりたいと思ったことはありません。そうではなくて、彼らと同じものを見たい。その人が見ているものを同じように自分も見たいと思いました。誰かを手本にするということは、そのようなことなのだと思います。

パウロが言う「わたしに倣う者になりなさい」という言葉も同じと思います。もしも、パウロが自分と同じように生きよと言って、自分の経歴や自分の仕事を誇り始めたら、他の人はついて行けないでしょう。そして、なんて傲慢な人だと思うと思います。けれども、そうでない。パウロは自分と同じ見方をして欲しいと言っている。自分を見つめる時も、人や神を信頼するときも。自分と同じように信頼をもって見て欲しい。

パウロとコリントの人たちとの見方のズレは何であったか。この手紙の中では、様々な問題の原因は「高ぶり」にあると言われていました。その根源はになにか。それは神は何処におられるかという神に対するイメージから来ているのだと思います。神は高い所におられる。神は豊かで総てを持っている。これは誰しもにある神のイメージだと思います。そこからわたしたちにとっての「幸い」のイメージも同じになります。幸せとは総てを持っていて、豊かになれること。だからこそ、わたしたちは持ち物を誇ります。けれども、パウロは「高ぶるな」、「愚かになれ」と言っていました。どうしてか。神は上ではなく下におられるからです。福音書に画かれる主イエスの姿は得るための旅ではなく与える旅でした。何も持っていないのに与える旅。最後は命までも差し出されました。主は人よりも上ではなく、下に向かう方であったからです。

わたしたちは損得勘定のバランスが取れていないと気が済みません。自分だけ働いて他の人がそうでないと気になって仕方が無い。同じ働きならば同じ報酬を得ないと気が済みません。平等が大好きです。得するならば歓迎ですが、損はしたくない。賢さとは如何に損をしないか。如何に人よりも得して生きるかに終始しているのではないかと思います。けれども、主は損得を考えません。加えて言えば愛は計算をしません(13:5)。これは端から見れば愚かです。けれども、パウロは、その愚かさに生きる事にこそ、本当の幸いがある。予想外の幸いがある事を信じていました。神である主がその生き方において示してくださったからです。