真理からのイマジネーション 上竹 裕子 牧師 ミカ書6章8節、エフェソの信徒への手紙4章17-32節

説教要旨 8月12日録音


「真理からのイマジネーション」上竹 裕子 牧師


ミカ書6章8節、エフェソの信徒への手紙4章17-32節



神は、わたしたちを新しくするために招かれます。「古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け」なさい。「だから」と続きます。だから、「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」。この言葉を守れるか否か考えるなら、健忘症にでもならない限り難しいと思います。しかしこれは、ただ怒りを忘れなさいとか、午前0時になったら気持ちをリセットしなさいといった表面的な掟ではないはずです。重要なのは、この教えの意図をわたしたちがどう聞くかです。ユダヤの暦では、日没から新しい一日が始まるので、新しい日に昨日の怒りを持ち込んではいけないという教えです。怒ってもよい。ただコントロール不能な怒りで罪を犯すことを戒めています。
25節以下は、具体的で積極的な教えが語られます。「偽りを捨て…なさい」、「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません…」とあります。これらのベースには「十戒」があります。人の価値観は変化し、法は改訂されます。十戒は、時代や環境の変化の中で変わらない、永遠の法として石板に刻まれました。しかし実際には、ユダヤ教の伝統、キリスト教会でも、多様性をもって解釈されてきました。例えば、十戒の第8戒「盗んではならない」(申5:19)という戒めはシンプルですが、次のような解釈があります。ただ窃盗を禁ずる戒めではなく、「隣人の牛が迷い出、隣人の生活が危険に晒されることが明らかなのに見て見ぬふりをしないこと。盗まれるのと同じ隣人の損失を未然に防ぐこと…隣人の生活と命を守る積極的な責任を示している」(P.D.ミラー)。
「盗まない」とは、そもそもどういうことなのか。もっと積極的に想像力を働かせるようにと招きます。聖書は情報言語ではなく、硬直したマニュアルでもありません。神の声を聞き、どう考えるのか。聞くわたしたちに委ねられていると言ってもよいのです。「盗んでいない」と胸を張って言える人がどれだけあるでしょう。でも聖書は責めるのでなく、「今から盗んではいけません」と言います。「むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるように」と。わたしたちは愛の乏しい者ですが、聖書から愛の想像力を学びます。想像力imaginationは、わたしたちがオリジナルで造り出す夢想ではありません。聖書の物語から繰り返し教えられ、習得していくものです。
聖書は、神が、わたしたちを、ご自分の似姿imageとして造られたと語ります。神のイメージで造られたという点で、人間は他のどの被造物とも区別された特別な存在だ、と。なぜ神は、このわたしたちを似姿としてお造りになったのでしょうか。全知全能の神です。完全に満ちている方であって、水がなければ生きられないとか、お金がなければ買い物ができないとかという存在ではありません。このことを、おもしろく喩えた人がいます(今道友信)。
公園のベンチに座り、親友3人で語り合っていると、鳩が近づいてきた。鳩がかわいらしく物欲しそうに近くを行き来している。「パン屑でも持って来ればよかったね」と3人は話します。友と語り合っていると、心が愛に満ちてきて、本当に何かを分け与えたくなるというのです。その逆に、激しいけんかをした後にひとりで公園を歩いている。すると草の陰から猫が飛び出してきて思わず心の中で叫びます。「びっくりさせるなよ」と猫を睨みつける。このように愛のない心は対象を弾き飛ばし、本当に愛に満ちているときには分かちたいと思うのではないか、と言うのですね。
神は無限に愛に満ちた心で、この愛を分かつ対象を探していらっしゃる。わたしたちは本当につまらないところが多い人間ですが、神の愛を受ける器として、もっとすばらしいことに、神と対話できる似姿として呼び出されたのです。わたしたちは、被造物で唯一、神の心に触れることのできる存在です。「み心がわからない」と言います。しかし、神はわたしたちに近づき、共に歩いて、深いところでつながろうとされます。わたしたちの本来の姿、神の似姿である自分を取り戻すよう招くのです。「神にかたどって造られた新しい人を身につけ」なさい、と。