健やかさを取り戻すための倫理 石丸 泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 5章1-13節

説教要旨 8月19日録音


「健やかさを取り戻すための倫理」 石丸 泰信 牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙 5章1-13節

パウロは、ここで一つの事件を取り上げながら、教会とは何か、キリスト者とはどういう存在かを語ります。教会の中で「みだらな行い」があったと言います。「みだらな行い」の具体的な状況は不明ですが、性的に不適切な関係です。教会では男女関係や家族のことなどには、あまり口を挟まないという風潮があります。しかし、ここでは言いにくい雰囲気だったというよりは、おそらく教会の皆が「まあ、いいか」と思っていたのです。わたしたちは自由なのだから自由にすればよい、と。
パウロが問題にしているのは、単に個人の罪の問題でなく、その人が罪の中に留まり続け、教会がそれを容認していることでした。ある人は「罪とは赦してはならないもののことだ」と言いました。「まあ、いいか」では決して済まされないのです。それゆえ、神は罪の赦しの代価として独りの子の命を差し出されました。それなのに、わたしたちが罪に対して「まあ、いいか」と言うならば、十字架無しの教会になってしまいます。
「こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」と言います。しかし、パウロが今、教会をふるいにかけるのは「主の日に彼の霊が救い出されるため」です。裁きの日の前に立ち返ることができるように。しかし、パウロは性的な乱れのことだけを問題視しているのではありません。「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者…」神が悲しまれることが幾つも挙げられています。その一つ一つを裁き、追放しようとするなら、皆が去らなければならなくなります。教会の法律、教会法には「戒規」があります。これは罪を犯した人を追い出す為のものではありません。その人が健やかさを取り戻すための戒めなのです。更に言えば、教会が教会であり続けるための制度です。
続けて、パウロは「古いパン種をきれいに取り除きなさい」と言います。「パン種」は罪を犯した個人を指すのではありません。「古い」、つまりキリストを知る以前の姿を意味します。神の悲しみを知らない「まあ、いいか」という心が、あっという間に共同体全体を腐らせると言っているのです。それがよくわかる物語があります。ルカ福音書の会堂で主イエスが腰の曲がった女性をいやした話です(13章)。安息日だったので、会堂長はこのいやしに腹を立てました。人々の間で、この女性の腰の曲がった様は18年間見慣れた姿でした。皆からすれば、「まあ、いいか」。だから、この彼女の問題は後回しでした。しかし、主は「まあ、いいか」とはせず、安息日の終わりを待たずに癒されました。この物語の後で、主は「パン種」のたとえを語られます。無関心が共同体を満たすのか、回復という小さな喜びが満たすのか。ほんの小さなことが、やがて全体をつくり上げていくものだ、と。
ある国の諺に「早く行きたければ、一人で行きなさい。遠くに行きたければ、二人で行きなさい」という言葉があります。前者の言葉は常識的です。例えば、受験勉強でも仕事でも、何かを得るためなら誰かと一緒にではなく、ひとりで頑張るというのが常識です。しかし、友と一緒なら、ひとりで歩けないような遠い場所にも歩いて行ける気がします。常識の中に身を置いていると、共に歩むことを忘れてしまいます。パウロは「古いパン種」を共同体に入れない為、あるいは悪に染まらないように世の人と付き合うな。世捨て人のようになれとは言いませんでした。主が人となられたのは世を愛するためです。主は世を敵対視しませんでした。人々を裁く為でなく、人が健やかさを取り戻すために主は人となられました。主は人と同化しましたが、しかし、世と同化はしませんでした。世にありながら神の思いを見ることを忘れなかったのです。
ある人は、祈りの際、わたしたちが手を合わせることの意味を、こう説明しています。右の手は「得ること」の象徴で「願いの手」である、と。わたしたちが「祈り」と呼ぶものの殆どは「願い」であって「祈り」を「願い」の中から救い出さないといけない、とさえ言います。左の手は「与えること」の象徴。与え、手放すことができる手である、と。左手だけでは、わたしたちは世を捨てなければいけなくなる。だからこそ、右手と左手を合わせて祈る。多くのことを願わずにいられないような世にありながらも、わたしたちは右手に左手を添えて、パン種のこと…何が大切なのか、ということを思い出したいのです。