もし復活がないなら」石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 15章1-20節

説教要旨7月7日録音


聖餐礼拝(主日礼拝)「もし復活がないなら」石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙 15章1-20節
パウロは「死者の復活」について議論しています。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」。教会の宣教は「あなたがたが十字架に付けたキリストを神は甦らせた」という言葉で始まってゆきました。そうであればコリント教会の人たちも知っているはずでした。それなのに、どういうことなのでしょう。
彼らは、しかし、キリストの復活がなかったとは言いませんでした。それは信じていました。彼らは死者の復活はないと言ったのです。つまり、キリストは復活した。しかし、自分たちの体は別だ、と言っていたわけです。キリストの復活と自分の復活がどんなに深く結びついているか、彼らには分からなかったわけです。パウロは、こう答えます。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」
不思議な議論だと思います。しかし、これは信仰の問題を考えるのにとても大切だと思います。普通、一般常識に照らして、死者の復活はあり得るのだろうかという問いから、その延長線上にキリストの復活を考えます。しかし、パウロはこうです。キリストは復活した。では、私たちはどうなのだろうか、という順序なのです。言い換えれば、自分の考えに信頼を置いて考えるのか。あるいは、神の為さることに信頼を置いて考えるのか、ということです。
パウロは、この話をする際、「キリストが・・・聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れ・・・そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と言います。なぜ、自分の話をしているのか。キリストの復活について考えるとき、他人事のように議論を重ねても意味が無いからです。それは自分の考えを土台にした議論だからです。パウロは神の為さったことを土台にして考えます。つまり、復活の主が、この自分にも出会ってくださったという事実。そこから始める。なぜ、今、キリスト者になっているか、それを語らずにはいられないのです。
パウロは「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と言います。彼は律法学者でした。旧約に描かれている神の教え、それに従って生きてゆくことこそ人生の総てだと思っていた人です。私たちも、これをしてゆくことこそ良き人生という人生の脚本があると思います。しかし、自分が思い描いている人生の脚本が最も素晴らしいと誰が考えたのでしょう。そう思っているだけかも知れません。あるいは、人生のスタンプラリーを埋めることこそ、幸せの証しと考えることもあるかもしれません。良い学校を出て、人に自慢できる働きに就き、家庭を持ち、家を持ち、年に一度は旅行へ。一つひとつスタンプを押します。子どもが生まれれば、子どもの幸せが自分のスタンプになります。どうして誰もが、そのスタンプを押したいのでしょう。その幸せは自分の幸せでは無く、他人の決めた幸せのスタンプかも知れません。
パウロは、神の律法を実現してゆくことこそ、幸せのスタンプラリーだと思って生きていました。だから、それを邪魔する「神の教会を迫害」していったのです。彼は殺人者、少なくとも共謀罪に問われる人でした。しかし、パウロは復活の主と出会ったのです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:1-)。どういうことがあったのかはわかりません。しかし、パウロは主の声を聴いたのです。その時、彼は神にその脚本を神に書き換えられたのです。パウロが復活の主と出会う前、あの教会、この教会を回って、キリスト者を尋問しました。すると、皆が言うのです。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだ・・・葬られた・・・聖書に書いてあるとおり三日目に復活した・・・」。そして、このわたしにも現れたのです、と。パウロは、その意味が分からなく、あざ笑ったと思います。しかし、自分に殺されるよりも、もっと大切なことを見ている人々に出会って彼は笑えなくなっていきます。キリストに従うということは、命よりももっと大切なことがあると信じて生きる事です。自分で描いた脚本より、世間が考えたスタンプよりも、もっと素晴らしいことを神が用意してくださる。それを信頼して、その恵みの一つひとつに気が付いてゆくことです。かつてのパウロは、それがちっとも分かりませんでした。しかし、今や違います。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」。
キリストの復活を信じるとは、神が今、生きておられ、復活のキリストが、このわたしにも語り掛けてくださることを信じるということです。礼拝堂での言葉が、自分に語り掛けてくださっているように聞こえるときがあります。その時、復活の主は、このわたしに出会ってくださっているのです。