復活と罪の赦し 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章12-20節

説教要旨7月21日(録音はありません)


主日礼拝「復活と罪の赦し」石丸泰信牧師


コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章12-20節
福音書は主イエスの十字架の死の後、マグダラのマリヤとイエスの母マリヤは葬られた墓を見つめていたと言います。象徴的な描き方です。人の人生は墓で終わります。そして、その人を愛する者たちは、亡くなったその人のことを慕って墓に向かいます。しかし、墓を見つめるしかできない。けれども、日曜日の朝、動くことのないはずの墓は開いていました。神は、自分たちには考えられないことを為さる方だ。主イエスは復活した。そうして教会は始まっていきました。
素直に聞けば、私たちに与えられている死者の復活という約束は、単純に喜ばしい約束だと思います。けれども、このコリントの教会の人たちの中のある人たちは、それを信じられませんでした。この「あなたがたの中のある者」とは初めて教会に来た人たちではありません。いつも教会に来て礼拝をしている人たちです。そういう人が言うわけです。死者の復活など無い。あるいは、自分が死んだ後、甦ろうと甦るまいと自分の信仰生活には関係はない。どちらでも良い、と。どちらでも良い。案外、私たちもそう思っている方は多いのではないかと思います。私自身、教会に行き始めたのは自分の蘇りを求めて教会を訪ねたわけではありませんでした。そして教会に行き続けたのも、自分の蘇りを信じたいと思ってではありませんでした。単純に、この聖書の言葉の中に真実があるかもしれない。このような方が私の神であるというのなら信頼できると思ったからです。おそらく、コリントの人たちも、そういう信仰だったのだと思います。言い換えれば、そこに留まる信仰です。
しかし、パウロは言います。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」わたしたちは、キリストの復活と自分の復活を2つに区別して考えます。キリストは神の子。ならば復活はあり得たでだろう。しかし、わたしたちは違う、と。しかし、パウロは死者の復活を否定するならば、キリストの復活も否定することになる、と言います。つまり、キリストの復活とわたしたちの復活は切っても切れない関係にあると言うのです。
どうしてか。神が、キリストの歩みとわたしたちの歩みを一つとされたからです。ここに「罪」という言葉が出てきます。「あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」。自分の罪。コリント教会の人々が見過ごしていたものです。彼らは、キリストは自分たちの罪のために死なれたと信じていました。わたしたちもそうです。しかし、キリストがわたしたちの罪の為に死なれたとはどういうことか。それは、キリストが私たちと一つになってくださったと言うことです。主は、わたしたちの抱えこんでいる罪を見て、これこそ我が罪だと言い、それをご自分の罪とされてその代償である呪いの死を受けてくださったということです。しかし、それほどまでに、わたしたちの歩みを御自分のものとしてくださった方が、その蘇りにおいて、私たちと切り離されてしまうことがあるだろうか、そんなことはない。これがパウロの確信です。
新約にはラザロの復活(ヨハネ11:38-)、会堂長ヤイロの娘の復活(マルコ5:35-)の出来事が描かれています。しかし、それで教会は始まりませんでした。奇跡は主が神の子であることを信じることが出来るようになるための出来事。しかし、主イエスの復活は単なる奇跡ではないのです。罪のゆるしの出来事です。「罪の報酬は死」(ローマ6:23)と聖書は言います。しかし、十字架の死によって、わたしたちの罪が赦されたのであれば、どうなるか。死は力を失います。死は命を死に留めておくことは出来なくなる。すると、再び命を得る。つまり、キリストの復活は、罪の赦しを神が承認されたという出来事なのです。
もちろん、この罪の赦しは、わたしたちの将来の復活の保証ということに留まりません。時に、わたしたちは自らの墓の中に閉じこもります。消すことのできない過去に縛られて動けなくなり、ずっと罪悪感、劣等感をもって生きてしまうことがあります。しかし、神は、その墓を壊したといいます。あなたを縛り付ける墓はもうない、と。ある人は、人は罪を犯して罪悪感を持つのではないと言います。自分は汚れているという劣等感、罪悪感から罪を犯すと。赦されずに責められるから、それに応えるようにして、あるいは投げやりになって罪を犯すということです。しかし、聖書は、その汚れを拭い去ると言います。他の誰も味方になってくれなくとも、神はあなたの側に着く。何度でも真っ白に拭う。だから、もう一度、行こう、と。自分の本当の姿を神が罪を背負い、拭うほどに愛してくださっていることを信じられたなら、自分を信じてくれる人もきっといて、再び居場所を得ることができるということも信じられるのではないかと思います。主の復活によって示された罪の赦しは、あなたをそこに一人で捨て置かないという神の御心の出来事です。