来てくれる神様 吉川良神学生(東京神学大学大学院2年生) ルカによる福音書15章11-32節

説教要旨 10月27日 録音

「来てくれる神様」吉川良神学生(東京神学大学大学院2年生)


ルカによる福音書15章11-32節
時々、大学などで知り合ったクリスチャンの友人と会う時「おれ、今神様と離れているんだ」という人がいます。どうしたの、と聞くと、自分は今、祈れていない。聖書も読めていない。教会にもちゃんと行けていない。いやむしろ罪を犯してばかりなんだ。だから、自分は今、神様から離れてしまっているんだと言うのです。
わたしたちも同じように考えてしまう時がないでしょうか。教会に行けていて、祈りや聖書に親しんでいれば、神様と善い関係を結べている。それができていないときは、神様から距離がある。しかし、そのようにわたしたちと神様との関係を考えてしまうことには、神様を、自分たちの信仰の状態で、近づきも離れもする存在であるように考えてしてしまうという問題がないでしょうか。もっと言うなら、神様との関係を、わたしたちの努力次第で変わるもののように考えてしまうということです。
聖書は、神様とわたしたちの関係というのはそういうものではないのだと言います。神様というお方は、わたしたちが努力によって近づいていくようなお方ではありません。わたしたちの無力さによって、わたしたちが遠のいていくようなお方でもない。
わたしたちが信じる聖書の神様は、ご自分からわたしたちのところに来てくださるお方です。罪による人間とのへだたりをご自分から超えて、わたしたちのところに来てくださる。これこそが、聖書が伝える福音です。
今朝の聖書箇所は、そのような神様の姿をわたしたちに伝えています。
このたとえ話には、ある父親と二人の息子が出てきますが、兄弟のどちらも、父親に対する無理解というところで一致しています。父親を、自分たちの言動によって態度を変える人と考えている。弟は自らの罪に目が奪われ、父親が自分を息子として迎えてくれないと考える。兄は、自分の努力に報いてくれないと言って、父親を責める。わたしたちが、自分の罪深さによって神様と距離を感じたり、苦難を前にして「何でですか」と嘆いたりする姿が描かれています。
しかし、イエス様は、このような考えとは全く異なる父親の姿についてお話をなさった。勝手に家を出て行った罪深い息子に対して、父親は自ら走り寄って抱きしめ、接吻します。また、怒って外に立っている兄に対して、出て行って彼をなだめる。父親は、自分から近づいていって、息子たちを家に迎えるのです。
神様はわたしたちを御国に向かえるために、人となってこの世に来て、わたしたちを神の子として迎えてくださいました。それはわたしたちがそれにふさわしい者だからでも、何かを達成したからでもありません。ただ愛によって、そのようにしてくださったのです。その愛は、わたしたちの態度によって変化するようなものではありません。わたしたちがどのような者であっても、神様は迎えてくださるということに信頼して参りましょう。