雄々しく、強く、愛をもって 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙16章13-24節

説教要旨 10月6日 録音

聖餐礼拝(主日礼拝)「雄々しく、強く、愛をもって」石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙16章13-24節
今日がコリントの信徒への手紙一の最後の箇所です。ここでパウロは4つことを勧めます。「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。 何事も愛をもって行いなさい」。
第一の勧めは、聖書に繰り返し登場する言葉です。わたしたちの日常では、むしろ、「目をつむりなさい」と言われることの方が多いように思います。目をつむろう、大目に見よう、と。しかし、ある人は言います。「子どもに親の欠点に目をつぶるように教えることは、つまり、その子がその欠点を身につけるということを意味する」と。目をつむることによって、過ちはどんどん伝播します。だからこそ、パウロは「目を覚ましていなさい」と呼びかけるのです。
第一の勧めは、次の勧めに通じます。「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」。これは、「あなたはどこに立っているか」「あなたは誰か」、という問いでもあります。ある人は言います。「この世の中はおかしいと思うとき、その中で自分だけはおかしくなっていないということなんて、ないのだ」と。わたしたちが世を批評するとき、自分はあたかも世と関係のないような顔で、世の外側に立ってものを言います。しかし、わたしたちも、その世の一部なのです。わたしたちがいつも、自分が誰であり、どこに立っているのかを忘れないように、パウロは呼びかけます。
第三に、「雄々しく強く生きなさい」と言います。これはパウロのオリジナルの言葉というよりは、パウロが大切にしていた旧約聖書の次の詩です。「雄々しくあれ、心を強くせよ/主を待ち望む人はすべて」(詩31:25)。日本語では「強く生きよ」ですが、元の言葉では「強くせられなさい」という受動態です。自分で自分を強くするのではなく、強くしてもらいなさいと言うのです。パウロは別の手紙でこう語ります。「弱いときにこそ強い」(Ⅱコリント12:10)。人は、自分が強いと思っている時は実は弱い。しかし、弱いと思った時、人は強くさせられるのだ、と。人は得意になると耳が塞がり、周りのアドヴァイスを聞けなくなります。しかし、不安になる時、悲しむ時、人は耳が立ちます。「雄々しく強く生きなさい」とは、勇ましくあれということではなく、自分の悲しみをいつも忘れないこと、拭われた罪をいつも忘れないことです。
第四に、「何事も愛をもって行いなさい」と言います。何か特別なことを勧めているのではないと思います。ある人はこう翻訳しました。「いっさいのことを愛の中で生じせしめよ」。換言すれば、何事も始めから終わりまで愛を動機に為しなさいということです。愛は得ることを思いません。相手に理由を求めません。しかし、わたしたちは、いつも価値を考えます。この人を大切にする価値はあるか。する理由は何か。すると、しなくてよい理由ばかりが次々に浮かんできます。しかし、主イエスは、相手を理由に動いたり動かなかったりしません。主の動機はすべてご自身の中にありました。
パウロは、しかし、あえて主ではなく、無名の奉仕者の名を挙げます。「ステファナの一家は・・・聖なる者たちに対して労を惜しまず…」。教会には知識人や派閥をつくるほどの力を持つ人がいました。その一方で、地道に教会を支える人がいて、この無名の人たちの奉仕者にパウロは勇気づけられたのです。当たり前の事が当たり前にできるように、日々、当たり前ではないことを当然の奉仕としてくれている人たち。パウロは、この人たちを重んじ、この人たちに続くよう呼びかけるのです。
最後にパウロは、自らの手で書きます。「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)」。すいぶんな言葉ですが、これは聖餐式の言葉とも言われます。聖餐では「ふさわしくないままでパンを食し・・・飲む者は、主の体と血とを犯す」という言葉が告げられます。「ふさわしくない」在り方とは、「主を愛さない」ことです。パウロは、何よりも礼拝を共にすることを思いながら、この手紙を書いていたのだと思います。聖餐の食卓で、「マラナ・タ」と唱えるたびに、繰り返し今日の勧めの言葉を思い起こしてほしいと願っているのです。