祝福してください -ヤコブの祈り- 石丸 泰信 牧師 創世記 48章15-16節

説教要旨 9月16日録音


祝福してください -ヤコブの祈り- 石丸 泰信 牧師


創世記 48章15-16節
 キリスト者にとって歳を重ねる幸いは、信仰生活を重ねる幸いです。歳を重ねると、体の不調や失うものが多いように感じるかもしれません。しかし、信仰者には最期まで奪われることのないものがあります。「祝福」を手渡す力です。今日、聖書は信仰者ヤコブの最期の姿を語ります。ヤコブが息を引き取る直前、子や孫たちを祝福する場面です。祝福の主体は賜物の与え主である神であり、神から祝福を受けた者が人を祝福することができます。聖書には「白髪の老人の前では起立しなさい」(レビ19:32)という言葉があります。高齢者を労りなさいということではなく、老人は祝福の担い手である点で、何よりも尊敬の対象なのです。
 聖路加病院元医師の日野原重明さんは、いつも看護学部の新入生に「君たちは何歳まで生きたいですか」と聞いたそうです。大半の学生は「50代まで」と答えるそうです。平均寿命の「80歳以上」と答えるのは1人か2人だそうです。日野原さんは、人生は若いことにだけ価値があるのではなく、老いて円熟するという面があり、そのモデルを自らの生き方によって伝えることができると言います。禅宗の大家鈴木大拙さんは、若い秘書に言っていたそうです。「君、長生きはしたまえよ。90歳にならないとわからないことがあるからね」。それぞれに与えられた人生があるので、長寿だけが神の祝福だとは言えませんが、喜びも神の恵みも、歳を重ね、時間を掛けないとわからないことがあるというのはわかる気がします。
 ヤコブは自らの生涯についてこう話します。「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません」(創世記47:9)。その後、ヤコブは147歳まで生きたと記されていますが、その一生は「苦しみ多く」という言葉そのものでした。災いや人間の策略に翻弄され、ヤコブの家族の物語は不和と諍いの連続です。しかし今、ヤコブは言います。「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」。他の翻訳では「神は、今日のこの日まで、わたしの羊飼いであられた」とあります。ヤコブは目に見えない方がずっと「わたしの羊飼いであられた」ことが、苦しみの年月を経て、今わかってきたのです。
 スーザンという女性がいました。彼女はかつて人一倍独立心の強い女性でしたが、突然の失明によって闇と怒りの世界に落とされました。夫は彼女が自分を取り戻すことができるよう励まします。やがて彼女は仕事復帰します。夫は職場まで車で送迎しましたが、自立のためにバス通勤を提案すると彼女は怒りました。それでも夫は、毎日バスに同伴しました。2週間経ったとき、彼女は「ひとりで行く」と言いました。そうして1週間過ぎたころ、バスの運転手が話しかけました。「あなたはいいね」。彼女は尋ねます。「どうしていいなんて思うの」。運転手は答えます。「あなたみたいに大切にされていたら、さぞかし気分が良いだろう」。彼女はいよいよ意味が分かりませんでした。運転手は彼女に教えました。彼女の夫が通りの向こうで見守り、彼女がバスを降り、通りを渡ってオフィスの建物に入るのを見届けてからキスを投げ、去って行くことを。彼女はひとりで乗っていると思っていたのに、乗るのも降りるのもずっと見守られていたことを知らされました。
 孤独に思えるときも、苦しみ多い月日も、「神は、今日のこの日まで、わたしの羊飼いであられた」。そのことを知る今、ヤコブは人生最後の仕事をしようとしています。息子ヨセフがそば来ると、ヤコブは力を奮い起こして座り、言います。「全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて、わたしを祝福してくださった」。そしてヤコブは、その祝福を手渡そうと祈ります。「わたしをあらゆる苦しみから 贖われた御使いよ。どうか、この子どもたちの上に 祝福をお与えください」。ヤコブは何かの教えや財産よりも、信仰を手渡すことを望みました。ヤコブは「イスラエル」と呼ばれ、その末に主イエスが生まれて、わたしたちはその兄弟、家族とされました。ヤコブの言う「この子どもたち」とは、わたしたちのことです。歳を重ねる幸いは、この祝福を発見し、手渡すことのできる幸いなのです。