代価を払って買い取られた体 石丸 泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 6章12-20節

説教要旨 9月2日録音


代価を払って買い取られた体 石丸 泰信 牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙 6章12-20節

「わたしには、すべてのことが許されている」。この言葉はコリント教会の人々のスローガンのようなものでした。それにパウロは付け加えます。「しかし、すべてのことが益になるわけではない」。今日の箇所は5章、6章前半のまとめの部分と言えます。パウロはここに、これまで取り上げた事件の根本を見ています。自分たちは自由で、何をしても良いのだという高ぶりです。

初代教会の会議の中で、救いは信仰に依るのか、行いに依るのかという議論があったことが記されています。一方の指導者たちは、キリスト者は律法を守るべきだと言い、他方、パウロは、信仰による救いと律法遵守の束縛からの自由を説きました。今日わたしたちの間で「信仰義認」は共通認識ですが、信じる者は救われる、信じれば必ず、ということは簡単なようで簡単ではないと思います。

カトリックの晴佐久神父に憧れ、会いに行った青年がいました。自分も司祭になりたいというこの青年に晴佐久神父は言いました。「あなたを司祭にするのは神だ。神が望めば必ずなれる。それを信じるか、信じればなれる」と。青年は神学校に進み、助祭(司祭見習い)となりました。ところが、あることをきっかけに司祭になるための推薦が受けられなくなります。しかし、彼は「信じればなれる」という言葉を忘れませんでした。司祭になれる見込みもないのに助祭として何年も働き続けました。その働きが評判となって司教の耳に入り、ついに司祭になることができたと言います。信じるということは信じていれば何もしなくても良いというのではない。神を信じ、すべきことを続けるということです。

信じていれば何をしていても良いのだと言って、自由をはき違えたコリント教会の人たちに対して、パウロは言います。「『すべてのことが許されている』。しかし、すべてのことが益になるわけではない」。自由というとき、心の状態や精神論を考えるかもしれません。しかし、パウロの語る自由は具体的で体に関わることです。何を食べてはいけない、この本を読んではいけない、どこに足を踏み入れてはいけない、そういった不自由を乗り越えたのがキリスト者です。

ただ、与えられた体の自由の使用目的を間違えてはならないのです。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。」パウロが「体」について語るとき、霊肉二元論の考えはなく、体は人格と分かちがたく結びついています。つまり、あなたの体は、あなた自身ということです。

「あなたは誰ですか」と問われたら何と答えますか。職業や役割で答えるかもしれません。しかし、自分の肩書や能力は変化し、最終的に失われます。それらによって自身を見ても、結局の所、自分が誰であるのかはわかりません。あなたが誰であるかという問いに答えるために、聖書は二つの筋道を示します。一つは、あなたの仕えているものが何であるか、です。何ができたとしても自分の腹を満たすことが目的ならば、自分の腹の奴隷です。パウロは自らをキリストの奴隷だと言いました。何をしてもよいのです。しかし、何に仕える目的でするのかによって、自分が誰かがわかるのです。二つめは、あなたの今が何によって造られているか、です。人は無時間的生きものではなく、歴史的生きものです。過去の関わりによって現在の自分があります。

ある人が父親の遺品整理で数枚の借用書を見つけました。給料の前借りをお願いする文面です。この人は直感しました。自分の学費と生活費の仕送りのための借金だ。父が頭を下げているとも知らず、彼は反抗し、仕送りで好き勝手やっていました。この時、自分の命が頭を下げる父によって支えられていたことを知りました。パウロも自分に向けられた犠牲に、後になって気づいた者の一人です。自由を自分の正しさのために使って生きていました。そのとき、主は天の父に頭を下げて言いました。「父よ、お赦しください。このパウロは何をしているのかわからないのです」。パウロが自らを振り返ったとき、本来受けるべき裁きがあることに気づきました。同時に、自分が受けるべき裁きを引き受け、十字架に向かう主の姿があったことに気づかされました。パウロは、その主の犠牲によって救い出されたことを「代価を払って買い取られた」と表現します。「あなたはいったい誰ですか」という問いに、ひとつの答えを示します。あなたは「代価を払って買い取られた」者だ、と。見えないところで犠牲を払ってくださった方によって、今のあなたがあります。その体を誰のために、何のために使うことができるでしょうか。