結婚と神 石丸泰信 牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙 7章8-16節

説教要旨 9月23日録音


結婚と神 石丸泰信 牧師

Ⅰコリントの信徒への手紙 7章8-16節
 パウロが「結婚」について語る今日の箇所は、当時の教会の文脈の中で書かれたもので、結婚の原則や一般論を語るものではありません。「未婚者(ここでは寡夫)とやもめ」には「独りでいるのがよい」。「既婚者」には「別れてはいけない」と語りかけますが、いずれも結婚を経験した人たちにそのままでいなさいとパウロは言います。聖書と同時代の書物から、独身主義の運動がもてはやされた当時の背景を知ることができます(例えば「ぱうろとテクラの行伝」)。パウロはその運動に巻き込まれて離婚すべきではないと語る一方で、再婚も否定しません。「身を焦がす」なら結婚しなさいと勧めます。これはただ「燃やす」というほどの言葉で、性的関係の乱れ(6章)を懸念してかもしれませんし、単に大切な人がいて「心が燃えるなら」という意味かもしれません。いずれにしても、パウロは何も禁じてはいないのです。
 そして、パウロは主イエスが離婚について教えたこと(マルコ福音書10:1-)を念頭に語ります。「既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。」旧約聖書は離縁状を書いての離婚を許しますが(申命記24:1)、離縁状は夫が妻の所有者であった当時の社会において、離婚した女性が新しい人生を送るために必要な証明書でした。しかし、次第に離縁状を書きさえすれば自由に妻を捨てることができるという解釈に歪められました。料理がまずいとか妻よりも美しい人を見つけとかといった理由で離縁するということが起こっていました。主イエスは、離婚そのものを否定したのではなく、離縁状を渡して去らせるその風潮を非難しました。パウロも同様です。独身主義運動に巻き込まれるなどの理由での離縁に対しての非難です。
 現代は離婚が当たり前の時代と言われます。しかし、ある人は「結婚の歴史と同じくらい離婚の歴史がある」と言います。離婚とは何かを問うことは、そもそも結婚とは何かを問うことと言えます。教会の結婚式は当事者2人だけなく、牧師と3人でもなく大勢の証人が列席します。その式の中心は証人たちの前での誓約です。聖書には神が結婚の証人だという言葉があります(マラキ書2:14)。誓約を裏切ることは、その証人である神を裏切ることでもある。結婚は単に好き同士ということではなく、契約関係に入ることです。共に利益も不利益も受けることです。ある人は「結婚の家」があると言います。その家に2人で入ったなら、家中の扉に鍵をかけ、その鍵はポケットにしまい込むのではなく窓から捨てるのだ、と。衝突があった時、すぐに家から出て行くことがないようにする為です。この家の中で関係を深めていくのです。
 「別れを繰り返す人は、自分自身を見つめたくないのではないか」と、ある人は言いました。距離が縮まることは相手を知るばかりでなく自身を知るという面があるからです。ある夫婦のエピソードを聞きました。あるとき、妻が有名店のどら焼きを買ってきてテーブルの上に置いて出かけたそうです。先に帰宅した夫はそれを見つけて食べてしまいました。妻が帰って来てどら焼きがないことに気づくと、けんかになりました。「一緒に食べようと思ったのに」と嘆く妻に夫は怒鳴りました。「そんなに言うなら10個でも100個でも買ってくるよ」。妻が出て行ったところで夫は気づきました。自分はこんなことで謝れない惨めな人間なのだ、と。後で妻は、どら焼きがなかったことではなく怒鳴られたことが悲しかったと打ち明けました。近しい関係の中で、わたしたちは自分の醜さや惨めさを知らされることになるのです。
 教会の結婚式の誓約では「この伴侶は神が与えられたものと信じますか」と問います。もし結婚の根拠が自分たちの選択というなら不安が伴います。自分たちの思いがグラつくとき、結婚の根本がグラつきます。だから教会は、結婚が自分たちの思いを超えた大きな力によるものと信じるかを問うのです。自らの惨めさを知れば知るほど、それゆえに神が与えられた伴侶であることに気づかされます。
 最後に、聖書は「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうしてわかるのか。夫よ…」と語りかけます。結婚の目的は、キリスト者でない相手を改心させることや互いに互いを救うことではありません。それは神がなさることです。神は結婚を通して、安心の満ちた「平和な生活」をつくり出すことへと召されるのです。