荒れ野に響く声 小松美樹神学生(東京神学大学 大学院2年生) マルコによる福音書1章1-8節

説教要旨 10月7日録音


神学校日礼拝 「荒れ野に響く声」 小松美樹神学生(東京神学大学 大学院2年生)


マルコによる福音書1章1-8節
 マルコ福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉から始まります。本のタイトルのような始まりです。「福音の初め」は福音書全体にかかる言葉でありながら、1章のイエスが登場するまでの事柄でもあると見ることができます。続く2-3節は旧約聖書での約束の言葉が、今成就したとしてイエス・キリストの福音の初めを描いています。マタイやルカが書いようなクリスマス物語をマルコも知っていたかもしれません。しかし、キリストの到来という出来事の「アドヴェント(到来)」を聖書の言葉の成就を待望する形で描いています。「福音の初め」はタイトルであると共に、旧約聖書の引用、そして、その預言の通り、道を備える者として洗礼者ヨハネが登場する場面なのです。
 2-3節はイザヤ書とマラキ書からの引用です。これらは「道」という言葉の繋がりがあります。両書物とも人々が「道」を見失っていた時代に書かれたものでした。その人たちに対して、道が拓かれるという約束の言葉です。 ここに引用されているマラキ書の言葉は、旧約の最後の言葉です(3:24)。マルコ福音書は、その言葉との繋がりをもって、イエス・キリストによる新しい契約の書、新約聖書を書き始めるのです。また、そのマラキ書には、主の日の前に預言者エリヤが遣わされることが告げられていました。 だからエリヤは再び現れると人々は信じていました。 だから、洗礼者ヨハネの姿は、聖書を読む者たちにとっては「あの預言者エリヤ」の姿とわかるのです。マルコは福音書の描き初めに、旧約から新約への橋渡しをしているのです。
 洗礼者ヨハネは、預言の通り、先に遣わされて、準備を始めていました。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。それはまさに福音の宣教の初めの出来事です。
 聖書で言われる罪は、神と人との関係の中でいいます。神が世界と人を造られました。その造り主と私たちとの特別な関係です。しかし、人は神ではなく、自分を中心に考えて、神との関係から外れ、自分の世界を築き上げて生きたいと願います。神を忘れること、神の言葉から離れていってしまうことに罪がありました。悔い改めることは「向きを変えて帰る」ことです。つまり、自分の見たい、聞きたいものの方向から、神の方へと向き直る。ヨハネはそのしるしとしての洗礼を宣べ伝えたのです。向きを変えて、帰っておいで、と。
 私たちの日常生活の「福音」つまり「良い知らせ」はどんなものがあるでしょうか。最近の出来事で言えば、行方不明になってしまった子どもが、多くのボランティアも加わって探して見つかったというニュースがありました。これも「よい知らせ」です。もし子どもが見つからなかったら、きっと生涯、悔やんだことでしょう。しかし、見つかったならば、感謝と同時に、生き方の向きを変えて、もうこんなことはしないと心に決めるでしょう。
 マルコの引用したイザヤ40章3−5節は捕囚されていた者たちが、祖国へ帰還する。その準備が歌われています。荒れ野はバビロンとエルサレムを隔てるシリアの砂漠でした。その荒れ野に、道を通せと言われる。これは命令ではなく「何が始まっているのか」を知らせる声です。それをマルコは「今や預言されていた先駆者が遣わされて、神の救いの開始が知らされた。自分たちの帰る場所へ行こうではないか!」と受け取り、その開始を告げるのです。
 荒れ野は「神などいない」と諦めにも似た、私たちの心であったのではないかと思います。神の方を向かなくなった私たちは、生きる場所を失う荒れ野をさ迷う民でした。主は神と人とを隔てる荒れ野に降りてきてくださったのです。しかし、人々は、エリヤであった洗礼者ヨハネを殺し、期待外れだと言って主イエスを追いやり、捨てた場所は十字架でした。その頂点でイエス・キリストは叫ぶのです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。私たちと神とを隔てる荒れ野の中で叫んでいたのは神の御子、イエス・キリストであったことに気づくのです。十字架の上からの主イエスの叫びが、私たちのための執り成しであった。それがマルコの知らせる「福音の初め」です。
神のもとに帰れるのは、そのイエス・キリストの出来事、福音があるからです。それをヨハネが帰る道はここだと叫んでいる。その導く声は荒れ野の私たちに向かって響いています。
 主の死によっていただいた新しい命を感謝して、主が再び来られる時を一緒に待ち望みたいと思います。