将来から今を見る 石丸泰信牧師 Ⅰコリントの信徒への手紙7章25-40節

説教要旨 10月14日録音


主日礼拝 「将来から今を見る」 石丸泰信牧師


Ⅰコリントの信徒への手紙7章25-40節
 パウロはコリント教会の人たちの結婚に関する質問に答えるために、この章を書いています。彼は独身でいることを肯定的に語りながら、結婚に対しても「罪を犯すわけではない」とか、いずれの在り方も否定しません。煮え切らない答えに感じるかもしれません。結婚の質問に対し、パウロが繰り返し語ってきたのは「今のままでいなさい」ということです。パウロはその理由を「今危機が迫っている」から「定められた時は迫って」いるからと言います。キリストが再び来られる終わりの時が近いと信じていたからです。
 終末切迫の意識が高まったこの時代、終末の到来に備えて、家族や日常生活を放棄する熱狂主義の運動が起こりました。しかしパウロは、終末が近いからこそ「現状に留まりなさい」と言いました。主イエスは言われました。「その日、その時は、だれも知らない。…父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(マルコ福音書13:32-33)。その時が分かるなら、重要なのは「その時」です。しかし、その時を知らないなら、重要なのは「今」で、今どう生きるのかが問われます。人は終わり(死)がいつ訪れるのか知りません。命は自分の手中にはないからです。わたしたちの歴史もわたしたちの手の中にはなく、終わりの時を知らされてはいません。それゆえ、わたしたちは終わりを意識して、今を生きるのです。
 神の定められたその時には、すべてが清算されます。ある人は、レストランで好きなものを好きなだけ食べてよいが、必ず清算の時が来る。それは神の定めた終わりの時と同じだと言いました。支払いを考えず飲み食いすることはないのに、自分の生き方について清算の日を考えないでいることがいかに多いことかと思います。だからこそ、パウロは言うわけです。「定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように…すべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」。肩書きも名誉も「これがあれば安心」という絶対のものはありません。わたしたちの持ちものはすべて過ぎ去ります。パウロは、独身であることも結婚していることも相対的なことで、過ぎ去らないものに目を向けることが重要だと教えます。彼がこう教えるのは「品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるため」です。
 「品位のある生活」は、何を見、何を見ずに生きるのかと言うことにかかっています。次のような詩があります。ある旅人が石工に尋ねた。「何をしているのか」。一人は答えた。「石を切り出している」と。もう一人はこう答えた。「わたしたちは礼拝堂を建てている」と。外面上、結婚していても独身でも、人生とは、毎日とは、コツコツと石を切り出すようなことです。しかし、それをただ「石を刻む生活」と見るか、「聖なる神の住まう家を建てる生活」とするのかで、大きな違いとなります。
 死生学の第一人者でドイツ人のアルフォンス・デーケンという司祭がいます。彼の祖父は、命がけでナチスに抵抗し、連合軍による解放を心待ちにした一人でした。待っていた連合軍がついにやって来たとき、祖父は白旗を挙げ、彼らを歓迎しました。その時、連合軍の一人が、幼いデーケンさんの目前で祖父を射殺しました。この時、デーケンさんは「汝の敵を愛せよ」と主が教えられたように、この兵士を本当に愛することができるかと自らに問いました。彼は硬直しながらも片手を差し出し、英語で言いました。「ようこそ」。兵士はにやりと笑って彼の肩を叩き去って行きました。彼は祖父の亡骸に跪いて泣きました。その時のことを振り返り、あの「ようこそ」という言葉を口にした瞬間が、自分が本当にキリスト者として生きる時を選択した時だったと彼は言います。敵も味方も、善も悪も、今まで抱いていたすべての図式が過ぎ去った時、彼にとって最後に残ったのは、聖書に記された主の言葉でした。彼は、この世の不条理の中で、主の永遠に触れたのです。このことをきっかけに、彼は神の与える友という名の故郷に巡り合うことができると考え、さまざまな国で仕えました。わたしたちも、主の永遠に触れるとき、主との再会を本当に待ち望む生き方を始めることができるのです。