主の祈り 石丸泰信牧師 マタイによる福音書26章36-46 

説教要旨 3月22日 録音


「主の祈り」 石丸泰信牧師


マタイによる福音書26章36-46 

説教のタイトルを「主の祈り」としました。場面はゲツセマネでの祈りです。主が教えてくださった「主の祈り」の場面ではありませんが、主がゲツセマネで祈られた「主の祈り」の場面です。「ゲツセマネ」とは「油絞り」という意味です。オリーブ山の中に油絞りの広場がありました。おそらく、そこは木々が少なく、満月の明かりに照らされたところであったと思います。主はわざわざ、弟子たちを連れてそこに来ました。主の祈りの姿を見て、聞いて、記憶に残してほしいと思ったのかも知れません。

主イエスは弟子たちの所から離れ、一人祈りをされます。戻ってきては弟子たちを起こし、また、離れて祈る。それを3回繰り返されました。ここでの主が強調されていることは、「わたしと共に」ということです。「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と言います。また、「わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」とも言われます。これは弟子たちだけでない。わたし達への言葉でもあります。目を開ければ、主イエスが祈っている姿が見えるくらい、近くに、共に主はおられる。だからこそ、目を覚まして祈ってほしい。やがて、弟子たちは逃げ出して言ってしまいます。「立て、行こう」と主は仰いますが、目を覚ますことができずに眠り込んでしまっている弟子たちは、主イエスとは別の場所へと行ってしまう。主はそうならないように「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と何度も仰いました。

ここでの「誘惑」という言葉は、主の祈りの「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」の「試み」と同じ言葉です。聖書では「ふるいにかけられる」という表現で試みや誘惑を表現することがあります。ふるいにかけて不純物と本物を分ける訳です。ある人は、一度くらいならば、人は誘惑に勝てると言います。しかし、それが三度四度続くと、ふるいの揺れる動きがゆりかごのような心地よさになって眠りに落ちてゆくのだ、と。弟子たちも眠るようにして誘惑の中に落ちてゆきました。

そのとき。主イエスが祈っていたのは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」という祈りです。神の御心が分かれば、わたしも従えるのに、しかし、いつも御心がわからないという言葉を聞くことがあります。しかし、神の御心を尋ねているようで、わたし達が考えていることの多くは、2つのうち、どちらが自分にとってより良い道か、という、自分のことではないかと思います。主イエスの言われた「御心のままに」という言葉は、英語の聖書では「not what I want, but what you want」です。とてもシンプル。わたしが欲しいものではなく、あなたが欲しいものを。御心、つまり、神の思い、神の望みは、いつも聖書に記されています。この場面での主イエスの望みは、わたし達が、目を覚ましていること、そして、わたし、つまり主と共にいることです。

聖書は、真実とは何か。それを考えるとき、いつも、まず神に聞いてほしいと言います。目を開けば、主の祈っている姿が見えるくらい近くにいるのだからこそ、聞いてほしい、と。ある人は、人は、この時代と戦わないといけないと言います。今の時代精神の中で、最も強力な敵、強力な罪は何か。それは、自己が肥大化していることだと言います。自分が大きくなっている。神さまよりも大きくなっている。例えば、わたしたちはあまり、何が真実か。何が真理かという問いを立てません。自分が真理だと感じているものが真理だからです。自分が正しいと感じたら、それは正しい。しかし、正しいと感じなければ、正しくない。『こども聖書』(鈴木秀子著)の中に「目を覚ましていなさい」を次のように言い換えているページがあります。「小さなことに気づけるようになりましょう」。阪神淡路大震災のとき、家も家族もいなくなったという男の人がスミレに花を持ってきたそうです。そして「すみれは地震のあったところにも咲くんですね。イヤなことが続いたけど、それを見たとき嬉しくなりました」と言われたそうです。この本は「いいことは、降ってくるものではありません。自分から探して、発見するものなのです」と言います。自分は正しいと思うと、人は目が閉じていきます。小さなことに気がつけなくなり、感謝もできなくなります。自分が正しいと思うものが正しいという殻に閉じこもるのも誘惑です。だから主は「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と何度も言われたのだと思います。

また、「心は燃えても、肉体は弱い」と主は言われます。精神は強くとも、肉体は弱いという話ではありません。「心」は「霊」と訳せる言葉です。「燃え」るは「熟す」や「進む」と訳せます。「肉」とは、肉体と精神を分かるような意味はなく「人」という意味です。つまり、神が与える霊は進んでいく。しかし、あなたは弱い。言い換えれば、あなたは弱くとも、神の霊は進もうとしている。わたしたち人は、弱い。だからこそ、立ち止まり、座り込み、誘惑にも負けます。しかし、神の霊は進んでいきます。それに信頼して祈るとき、「立て、行こう」と言われる主の姿を近くに見ることができます。