本当に、この人は神の子だった 石丸泰信牧師 マタイによる福音書27章45-56節

説教要旨 4月5日  録音

「本当に、この人は神の子だった」 石丸泰信牧師

マタイによる福音書に27章45-56節

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。この言葉はマタイ福音書が記す最後の言葉です。この約束は主イエスが天に挙げられた後も変わりませんでした。弟子たちは集まって、パンを割き、主に祈りながら、主と共にいることを経験していました。今日の礼拝には聖餐式のパンはありません。しかし、それがないからといって「あなたがたと共に」という約束は変わることはありません。

コロナウイルスというのは「共に」をさせなくさせるものです。集うこと、一緒に食事をすることをさせなくする。しかし、今日の聖書の箇所は反対に人と人、人と神さまとのつながりを作る場面です。主イエスの死の際、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たと言います。この垂れ幕は神と人との隔ての象徴です。主の死は隔てをなくす死でした。

そして、この言葉に注目したいと思います。「本当に、この人は神の子だった」。百人隊長を代表とする多くの人々は「地震やいろいろな出来事を見て」、この言葉を言いました。ここには、神殿の垂れ幕が裂けたこと、墓が開いて聖なる者たちの体が生き返ったこと、多くのことが書かれていますが、そのどれもゴルゴタの丘にいた彼らには見えないことです。彼らが見聞きしたのは「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫び死なれた主イエスの姿だけです。

 ある人は、この言葉が好きじゃないと言います。なぜなら、疑問符(?)が語尾に付くなんて、およそ、神らしくないからです。神には「光あれ」、「黙れ、静まれ」のように感嘆符(!)が付く方が相応しいからです。

どんなときに「なぜ、わたしを見捨てるの?」と言うでしょうか。あまり、その場面はないと思いますし、むしろ、そう言わなくて済むようにして生きていると思います。もしも6歳児が旅行先で家族において行かれたら、きっと言うでしょう。「なぜ、置いていくの?」。しかし、もしも、その子に知恵と力とお金があれば、一人タクシーに乗って怒りながら帰ってくるでしょう。ある大型犬も、飼い主が出かけようとすると一緒に行けるものと思って付いてくるそうです。でも、どうやらそうじゃないと感じると、「なぜ、わたしを置いていく?」という顔をするのだそうです。しかし、もしも、この犬に玄関の鍵を開ける知恵と力があったなら、ドアを開けて追いかけてくるでしょう。

主イエスには力がありました。天と地を造り、奴隷の家から人々を救い出された。その方が、人となって、この世界にやって来られました。主イエスは父なる神と共に歩き、弟子たちを集め、天の国を語り、愛するとはどういうことかを教えられました。しかし、父なる神は最後の最後で帰られます。主イエスを十字架の上に残して。残された主イエスは叫びます。「『わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか』。この刑は、わたしの罪のせいではありません。それはご覧の通りのはずです。むしろ、十字架に掛けられるべきは、この人たちだ!」ここまで言いたかったかもしれません。主イエスには力があります。「わたしは、ここにいるべきではない」。そう言えば、それは出来事になります。しかし、主イエスは、そう仰らなかった。

罪は、それ自体が罰だと言います。自分の罪、相手の罪、それが互いに互いを苦しめています。主は、その苦しみに巻き込まれないで去って行くこともできました。しかし、主は共にいることを選ばれました。共にいるとは痛むことです。「あなたがたと共にいるべきではない」と言って痛みを避けることを選ばず、神に見捨てられるしかない人々と共にいることを選ばれたのです。その姿。力ある姿ではなく、共にいる姿を見て人々は「本当に、この方がわたしの神だ」、と。

ある牧師は、小さな頃やんちゃだったと言います。それで魚屋で魚の入った籠を何個もひっくり返してしまったそうです。店主は赤鬼のような顔で怒った。しかし、その時、母親が店主の目の前に飛び出してきて何度も頭を下げたそうです。すみません、すみません、と。まるで母が過ちを犯したかのようにして、小さくなって。この牧師は、度々この姿を思い出すそうです。自分のために小さくなる、あの姿の中に、ああ、この人は、本当に自分の母親だと。もしも、母親が店側に立って、店主と一緒に息子を叱っていたら、話は違います。彼は一人です。新型ウイルスはわたしたちを一人にさせるかもしれません。しかし、わたしたちが信頼している神は、あなたを一人にはしない方です。