聖書のユーモア 石丸泰信牧師 ヨナ書4章1-11節

説教要旨 3月15日 録音


「聖書のユーモア」 石丸泰信牧師

ヨナ書4章1-11節 

ヨナ書は3章までは楽しい話が続きます。けれども、4章になると急に難しくなる。難しいというよりも分かりたくないという方が正確かも知れません。分かりたくないから難しいといってわからない振りをしたくなるのだと思います。4章は信仰者へ向けた話です。3章まではヨナの姿を追って読んでいたかも知れない。しかし、ここからヨナがわたしの姿に重なるのです。

ヨナは1日中、同じ言葉を語ったこと3章は伝えています。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」(3:4)。最初は恐かったと思います。同胞が滅ぼされた町です。笑われる、攻撃されるのではないか。小さな声しかでなかったと思います。しかし、誰も危害を加えてこない。だんだん声は大きくなったでしょう。お前たちが滅びることを神が決定された。ずっと我慢してきた復讐の時です。ヨナは嬉しかったに違いない。ここにもわたし達の姿があるかも知れません。誰にでも憎むべき相手があると思います。自分を攻撃してくる人たち、思い通りにするのと邪魔する人たち。どれだけ眠れない夜を過ごしたか。いなくなってくれたらどんなに楽か。しかし、それに向かって神は災いをくだすと仰る。ヨナは思ったでしょう。神はわたしの味方だ。けれども、ヨナが語り始めた途端、歩いて3日間かかる町を1日分歩いただけで皆が皆、悪の道から離れてしまうのです。そして、神も思い直してしまった。これはヨナにとって辛いことであったと思います。神さま、赦すと仰いますが、それではわたしの受けた屈辱、痛みはどうなるのですか。あなたに従って言葉を伝えたのに、どうして彼らの側に立つのですか。

「そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした」。この出来事を受け入れられずに、きっと何か起こるだろうと信じるヨナは見届けようとします。「あと四十日すれば・・・」と言っていました。40日間の観察の始まりです。 「すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ」。ヨナは思ったでしょう。神は味方だ。「ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった」。ヨナは言います。「生きているよりも、死ぬ方がましです」。神も仰います。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」神はヨナを振り回しているように見えます。もうヨナは神が自分の味方であるかも分からなくなったでしょう。ヨナは思っていました。神は相手を罰する神であってほしい。もちろんヨナは神がどんな方であるか知っていました。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方」。だから、ヨナ自身救われました。しかし、ニネベが助かることの意味が分からない。自分だけの憐れみの神でいてほしかったのです。

ある牧師が悩みを話してくれたことがあります。教会の中で仲違いがあった。それぞれ相談を聞くが、いつも、先生はあちらの味方ですねと言われているような気がしていたそうです。そんなつもりはないと言っていました。そして、会員は自分の子どものようなものだ。どちらを愛して、どちらを非難するなんてできるわけがない。親であれば、分かることだ、と。分かる気がします。子どもが過ちを犯したとしても、それで全世界が敵になったとしても親は子を愛し続けるでしょう。「アメージング・ジャーニー」という映画の中に、知恵の洞窟の場面があります。そこで神の審判にかけられます。裁くのは神ではなく父親。裁かれるのは二人の子ども。兄と妹です。神は、父親の知らないところで犯した二人の過ちを父親に伝え、二人の本当の姿を暴きます。そして言うのです。一人は助け、一人は滅ぼそう。どちらか選べ、と。父親は選べません。再度、選べと言われます。だったら俺が死ぬ。父親はそう応えました。主イエスの十字架の死は、この死です。ヨナが気がつけなかった神の思い。ヨナとニネベのどちらかを選べと言われたら神は、ご自身を差し出す方なのです。

ヨナ書は神の問いにヨナが答えないままに終わります。「お前は怒るが、それは正しいことか」。神とヨナの40日間のリトリートの中での問いは、そのままわたしたちへの問いになっているからです。礼拝は、自分の中に溜め込んだ、自分の正しさを手放すとき。一度、手放して、自分の外にある真実を受け取り直すときです。主の死の意味の中に真実があります。そして、主が流された血、裂かれた体でこそ、養われ生きるのが聖餐です。他の言葉でもなく、あなたの正しさによって生きるのでもなく、わたしがあなたたちに変わって捧げる命によって養われなさい。