どん底から響く感謝の歌 小松美樹伝道師 ヨナ書2章1-11節

説教要旨 3月8日 録音


「どん底から響く感謝の歌」 小松美樹伝道師

ヨナ書2章1-11節

物語の口調で書かれたヨナ書は、ヨナが神からニネベの街に言葉を伝えるようにと、任を与えられるところから始まります。けれどもヨナはイスラエルの敵であるアッシリアの都、ニネベになど行きたくありませんでした。敵など悪に埋もれて、神に滅ぼされてしまえばいいと思ったのでしょう。そこでヨナはその勤めから逃げ出し、また神からも逃げ出します。「地の果て」とも言われる程遠いタルシシュへ船で向かいます。「ヤッファに下る」(1:3)、船に乗り、「船底に降りて横になり」(1:4)、こうしてどんどん神から離れていきました。神は嵐を起こして海を荒れさせます。困り果てた船乗りたちに、ヨナは「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。」(1:11)と言います。ヨナは荒れ狂う海に投げ込まれました。「主から逃れようとして」(1:3)どんどん降ってきたヨナは、とうとう海の底、陰府にまで降ってしまいました。陰府とは、神に祈っても祈りが届かないところという言い方がされます。世界との断絶で、「扉を閉ざす」世界です。自分が望んで神を避けてきたはずでした。けれども、神の御顔の届かない所というのは、人の生きられる所ではありませんでした。もうだめだと、助けてと祈ったのだと思います。すると神は、巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませました。今日の聖書は、その魚の腹の中で祈られた、ヨナの祈りです。預言者が神からの命令を拒んで逃走するような、他の聖書の箇所には無い描き方がされています。預言者であるヨナの小さな子どものような行動に、イライラするような思いを持って読んでいたことがありました。逃げる。嫌だよ、やらないよという態度。黙っていて、周りに迷惑かける。そのくせ窮地になると、助けてと言う。でもそれは私たち自身の姿なのかもしれないと思いました。また、預言者というと今の時代にはいない者、自分たちとは関係の遠い存在と思われているかもしれないけれど、今この礼拝に招かれ、神の言葉を聞く私たちに語りかけられていることなのだと思います。そう思ったとき、ヨナの気持ちもわかるかもしれません。また、父なる神、つまり親の愛情を一心に受けたい思いから、親の愛する他の兄弟を妬むような思いや、嫌いな人のためになぜ私がやらなくてはならないのかというような思いを抱く。これは自分の仕事では無いと心を閉ざす。そうして神から離れようとしている時があるのだと思います。

 ヨナの祈りのこの言葉、「苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった。」「陰府の底から、助けを求めると わたしの声を聞いてくださった。」。これは魚に呑み込まれたことは、絶望や死ではなく、神の働きであることを知った者の言葉です。ただ一人、神の光の届かない所にいる。そこに神の助けが魚を通して送られました。ヨナは魚の腹の中、海の底にいて、助かったような姿には見えないけれど、神に感謝の祈りをしました。出口の見えない腹の中で、この後どうなるのか全くわからない中にいるのに「引き上げてくださった」と、もう陰府にはいないかのように祈りました。自分の声を神は聞いていて下さった、そのことを知ったからです。それは、神のいるところ「聖なる神殿に達した。」からです。腹の中だろうと、海の底だろうと、主が聞き入れてくださったところ、嘆きが聞かれた所は神殿なのです。
 魚の腹とは「胎」とも取れる言葉です。新しい命の宿る場所です。ヨナは魚の胎の中で新たに神に出会い、新たな生きる力を得ました。陰府から引き上げられることは、今や主の十字架にはっきりと示されています。主イエスは陰府に降り三日目に復活させられました。神は死の中にも御手を伸ばし、私たちを引き上げてくださるお方です。人の目にはどん底に見える状況にも神は御手をもって私たちを捉えて下さいます。ヨナは神との関係を断ち切って陰府にまで降りました。神から逃れることばかりを考える私たちです。けれども、私たちが主なる神を断ち切ろうとも神は私を断ち切らないお方です。

 ヨナ書は、ヨナが謝ったから助けてもらえたとか、神からは逃げられないのだという話や、神に逆らう者の行く末を描いているというのではないと思います。 異邦人に向けられる、神の憐れみが受け入れられずに、逃げ出したヨナでしたが、その神の憐れみの眼差しは、ヨナ自身にも向けられています。神は私たちを惜しんで、諦めずに引き上げてくださいます。「お前の悪事はわたしの前に届いている。もうあきあきした。だが目の前の我が息子、ヨナよ。あなたにも同じことをしよう」。そう呼びかける声が響いています。