神が備える逃れる道 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章1-13節

説教要旨 2月3日録音


主日礼拝「神が備える逃れる道」 石丸泰信牧師


コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章1-13節
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。この言葉の前半部分は、「神は負いきれない荷物は与えないのだから、追い詰められてもどうにか乗り越えよ」という激励の言葉に聞こえます。しかし、後半部分では「逃れる道」が用意されているとも言います。人生は、どんなときでも袋小路ではない。逃げる道、もう一つの道がいつも用意されていると聖書は言います。
「試練」は、「試されること」であり、英語では「テスト」という言葉です。「試練」の苦しみというものは誰もが知っているのだと思います。けれども聖書のいう「試練」の目的は私たちを苦しませることではありません。その試練を通してのみ見ることのできる景色があり、それを見ることができるよう「試練」は与えられると言ってもよいと思います。わたしたちの今の苦しみ、今の痛みを聖書は「試練」と受け取って良いと言います。そして、神は、その試練を乗り越える力をも与えてくださる、と。
けれども、悲しんでいる人に向かって「それは神があなたに与えた試練だ」とは言ってはならないと思います。ただ本人と神との関係においてのみ、苦しみを試練として受け取ることができるのだと思います。チャレンジしない方を選んだ時、わたしたちは言います。「無難な選択をした」と。災難、困難、苦難が無いと書いて「無難」です。難が無いに越したことはありません。しかし、そういう無難な道は、何も起こらず、何も残らないのかもしれません。反対に、難が有るという言葉は、「有難い」という言葉に重なります。困難があり、助けられた経験をした者はありがとう、有難いと言います。試練を受けるときに、人は他者との関係をつくっていくのかもしれません。「ああ、有難い」と言えるとき、その試練は忘れられない記憶を人生に刻むのだと思います。
しかし聖書は、神が「試練と共に…逃れる道をも備えて」くださるとも語ります。わたしたちは、いつも「逃げたらだめだ」と思っています。逃げずに頑張ってこそ、栄光を得ると思う。けれども、わたしたちのこの思考は「人はハードルを越えることによって成長する」という、これまでの教育観によるものではないかとある人は言いました。スポーツでも、受験でも、逃げ場をなくして頑張らせる。しかし、困難を乗り越えることのできる人は良いですが、乗り越えられなかった人は負けで、行き場を失ってしまいます。その子の行き着く先は死であるかもしれません。
聖書は「死んでも逃げるな」ではなく、「逃げてでも生きろ」と言います。死ぬぐらいなら逃げなさい。最後まで生きる道を探しなさい。なぜなら、どんなときでも逃げ道があるからです。人生には「〇〇でなければだめだ」とか、「〇〇でないと意味がない」とか、そういうことはありません。必ず別の道があります。聖書は、あなたに八方塞がりはないと言います。目の前にあるのは壁ではなく、今、壁に見えるものはすべてドアなのだと言います。わたしたちは「理想の将来」を描くのと同時に「理想の救われ方」も描いています。自分の思い描く救われ方でなければ、救われないと思っているのです。しかし、あなたのドアが開くのは意外な方法かもしれませんし、そのドアを開けるのは思ってもみない人かもしれません。
わたしたちは、「逃げても大丈夫」と言われても、すぐにそれを受け入れられません。神よりも人の目が気になるからです。自分のプライドが許しません。しかし、勝つこと以外、救いがなく、乗り越えることが唯一の道だと考えるなら、いつまでも新しい道を見つけることはできません。逃げた先に将来はない、何もないと不安に思うことがあるかもしれません。しかし聖書は、逃げた先にも神はおられる、と言います。たとえわたしたちがその場から逃げたとしても、あの人と別れたとしても、自分の理想とかけ離れた新しい道を行くとしても、決して一人ではない、と言います。「わたしはいつもあなたと共にいる」と、神が約束してくださるからです。