キリストに倣う者 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章23-11章1節

説教要旨2月17日録音


主日礼拝「キリストに倣う者」 石丸泰信牧師


コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章23-11章1節

「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」とパウロは言います。当時、コリントの教会では「わたしたちは自由だから何をしてもよい」「すべてのことが許されている」といった言葉がスローガンのようなものでした。パウロはこのスローガンを「すべて神の栄光を現すために」という言葉に塗り替えようとしています。
「すべて神の栄光のために」とは大げさなことに感じるかもしれませんが、換言すれば、神の思いを踏みにじらない、主イエスの十字架の死を無にしないということです。教会は主との再会の時を信じています。神がいないかのように生き続けてこの時を迎えるのではなく、神の前に喜んで進み出ることができるようパウロは奨めているのです。彼は言います。「『すべてのことが許されている』しかし、すべてのことが益になるわけではない」。何をしてもよいけれども主のことを忘れないでほしい、と。
その筋道は「自分の利益ではなく他人の利益を追い求め」ることだとパウロは言います。自分の自由の行使が相手の益にならないとき、相手のために自分の自由を断念することです。
人は大人になれば、時間もお金も権利も、自由が増えます。子ども時代には「早く大人になりたい」と思うものですが成人して自由になると、多くの人は子どもに対して「ああしなさい」「これはだめ」と制限を与えます。身勝手に歩むと自分をだめにしてしまうことを知っているからです。成熟した大人は、自由をどう用いるべきかを知っている人だと言えるのだと思います。
先日、「自立(自律)と共生」をテーマにした講演の記事を読みました。講師は「放蕩息子のたとえ(ルカ15:11-32)を引いて、次のように語りました。「自立とは、自分が愛されている大切な存在であることに気づいてから始まるということ。自律とは、自分自身を大切な存在であると気づいた自分が、他者を同じように大切な存在であると認め、共に生きようとすることだ。」
自由も同じだと思います。本当に自由な人は、こうしないと人から愛されない、評価されないなどとは考えません。自分がいかに大切な存在であるか知っている人は、進んで人のために自分の権利を捨てることができます。自分と同様に、目の前の人も大切にされるべき存在だからです。
パウロはこのような在り方をコリント教会で広めたいと考え、言います。「わたしに倣う者になりなさい」と。一見、自信家のような言い方です。しかし、彼は獄中でも同じことを語っています(フィリピ3:17)。誰も囚人と同じ目に遭いたくないでしょう。彼は世の見方では勝利者ではありません。しかし、全力です。もう倒れそうになりながら、それでも本当に大切なことを求め、全力で「自分の利益ではなく他人の利益を追い求め」ます。その「わたしに倣う者になりなさい」と言います。「わたしがキリストに倣う者であるように」という言葉の通り、主ご自身がそのような方であったからです。
キリストに倣うとはどういうことでしょうか。ある人は、世界が和解するためには「屋根」を掛け替えねばならないと言いました。皆、自分の家があり、隣の家があります。隣同士でも屋根は続いていません。だから、隣の家が困っていても我が家のことのようには悩みません。しかし、主はまるですべての人が同じ屋根の下に住んでいるかのようにご覧になるのです。
あるミッションスクールの卒業生が次の話をしてくれました。大学生活に行き詰まったとき、高校時代の友人に電話で「心が枯れてきた」と話すと、電話の向こうから「わたしが水になるよ」と返ってきた。それで本当に救われたと彼女は言いました。自分が何ができるか(doing)でなく、ただ自分の存在(being)を大切にしてくれる友があることに気づかされたのです。主も渇いている人の水となられ、瀕死の人に「わたしが代わろう」と言われました。主の死は「高価な犠牲」と言われます。主はご自分の命という高価な代償を払われました。換言すれば、わたしたちがとても高価な存在だということです。わたしたちの隣の人もです。わたしたちは主の高価な犠牲を忘れずに、隣人と共に歩みたいのです。