嫉妬する神 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章14-22節

説教要旨 2月10日録音


主日礼拝「嫉妬する神」 石丸泰信牧師


コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章14-22節

「わたしの愛する人たち…偶像礼拝を避けなさい」とパウロは言います。パウロはこれまで、神は唯一であって他の神など存在しないと話してきました。当時、コリント教会の人たちが困惑していた、異教の神殿に献げられた肉を食べても良いのか否かという議論についても、そもそも偶像の神は存在しないのだから気にせず食べてよいと回答しました。しかし今日、パウロは「偶像礼拝を避けなさい」と言います。矛盾しているように感じるかもしれません。
パウロはこうも言っていました。「わたしたちは自由だから何をしても良い。けれども、わたしはその自由によって愛の奴隷になることを選ぶ。あなたがたにもそうであってほしい」と。この議論の中でパウロは具体的に強く奨めているのです。だから「偶像礼拝を避けなさい」と。
パウロが問題にしているのは、食事のときに「偶像の食卓の席に着く」ことです。食物にも偶像にも、それ自体に意味はありません。しかし、偶像に肉を献げるというとき、それは神でないもの、「悪霊に献げている」のだと彼は言います。「悪霊」は、現代のわたしたちにとって馴染みが薄いかもしれませんが、「得体の知れない感化力」といってもよいものです。パウロはわたしたちが、得体の知れないものの力の虜にならないよう警告しているのです。
パウロは繰り返し食事に焦点を当てて語りますが、食卓に「あずかる」というとき、「あずかる」という言葉は、元の聖書の言葉で「コイノニア」。「交わり」、「共同体」といった、関係性をつくる言葉です。つまり、食卓に着くとき、共同体ができると言いたいのです。もちろん異教の人たちとの交わりを一切否定するということではないと思います。主イエスもパウロ自身も異邦人と食卓を囲みました。ここでパウロが言いたいのは、わたしたちが造り出す偶像のことだと思います。
「偶像」は、聖書のギリシア語で「アイドル」という言葉です。テレビの中、学校や職場にもアイドルがいるかもしれません。アイドルにはファンができます。アイドルは嫌なことを言わないからです。ファンは良い言葉だけ聞けます。戒められることも罪を指摘することもありません。だから気持ちよくなれます。そうして、アイドルに惹かれていくのだと思います。
先日、聖書研究会で「問題のない家庭はない」ということが話題になりました。家庭のような、愛する者同士の最小の関係ですら問題が起こることを、わたしたちは知っています。それなのに教会に問題が起こると、「教会なのに」と嘆きます。まるで「教会で問題など起こるはずがない」という偶像を信じているかのようです。「常識」や「世間」という偶像もあるかもしれません。また、何かに失敗したり、できないことに直面したときに、自身がダメな人間であるかのように言う人がいます。自分で「理想」という偶像を造り、その通りでないことに苦しむのです。わたしたちが強く惹かれ、またそれによってひどく落胆もする、最も力を持った偶像は、自ら造り出した「理想」かもしれません。
別の見方をすれば、偶像は本当の神を小さくしてしまうものです。パウロは「あなたは今、何を礼拝して生きているのか」と問いかけます。偶像という得体の知れないものの力から、わたしたちを引き離そうとしているのです。そしてパウロは「主にねたみをおこさせるつもりなのですか」と言います。聖書の神は「妬む神」です。神はご自分の民に十戒を与えるときに、ご自分を「熱情の神」(出エジプト20:5)だと言われました。「妬む神」と訳してもよい言葉です。わたしたちは「神は優しく、愛して、見守ってくださる」などといった一言で済ませようとしてしまいます。それも偶像です。ある人は、神は天からわたしたちをご覧になり、大きな問題がなければ「おまえのいいようにしたら良いよ」と眠たげに呟く父親のような方ではない、と言いました。神でないものに心支配され、心引かれているわたしたちに対し、たまらない思いを抱かれる方なのです。