神なしに男も女もない 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章2-16節

説教要旨 2月24日録音


主日礼拝「神なしに男も女もない」石丸泰信牧師

コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章2-16節
パウロはこの箇所から教会の礼拝に関することを語り始めます。今日の箇所の議論は女性の身分が低く、その権利が著しく制限されていた当時の社会の中で、教会では男女共に祈り、説教していたという驚くべきことが前提となっています。「男は・・・祈ったり、預言したりする際、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります」と言います。これは礼拝奉仕のことです。「預言」はと言われているのは説教のことです。他方、「女は・・・祈ったり、預言したりする際、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります」と言います。つまり、パウロは礼拝奉仕に関して男女で異なる在り方を求めています。コリント教会では「キリストにあっては男も女もない」という自由の教えに基づいて礼拝を考える中で、伝統的な慣習を否定する動きが出てきました。当時、女性は人前で髪を見せず、ベールをかぶることが慣習でした。それを守らない人たちが出てきたので教会で混乱が起こったのです。
パウロは新しい教えによって伝統的なやり方を簡単に変えてしまうことに警鐘を鳴らします。価値判断の基準が、神ではなく自分たちになってしまう恐れがあるからです。パウロはここから聖書の思いを深く汲み取っていく作業を始めます。
「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男…キリストの頭は神である」とパウロは言います。男の頭はキリストの栄光を現すのでかぶりものをしてはならないが、女の頭は男の栄光を現すので、その先のキリストの栄光を現すための礼拝には相応しくない。だからベールをしなさいということなのです。パウロは創世記の創造の秩序を念頭に語りますが、このかぶり物という習慣の議論に関しては時代や地域的、民族的背景に制約されているので普遍的な教えとは言えません。パウロの言葉の背後に目を向けたいと思います。
神は人をお造りになったときに言われました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2:18)と。彼に「合う」とは、「向かい合う」という言葉です。「助ける者」とは、「ヘルパー」ではなく「パートナー」です。向かい合って共に生きるパートナー、それがアダムにとってのエバでした。「アダム」は「人」というほどの意味で、女性エバの存在があって初めて、このアダムは男性として存在します。
「人が独りでいるのは良くない」と神はおっしゃいました。「人は独りでいると自分が世界の中心になる」とある人は言います。わたしたちは誰でも、ものごとが思い通りになることを望みます。自分の立てた計画が上手くいかないと悩みます。自分の描いたスケジュール通りにすべてが運んでいるときには幸せを感じます。おそらく、これは世界中の人の願いです。しかし、この世界の歴史の中で、実際に「すべて自分の思い通り」を実現した人がいます。独裁者と呼ばれる人たちです。独裁者は自分の自由のために人の自由を奪います。人を思う通りに動かし、ほしい物を思うように手にしながら、一方では孤独で信頼できる人が誰もいません。不幸です。時間もお金も自分のために使って、自分のために生き、死ぬ。そのために人は造られたのでしょうか。否、だからこそ他者の存在があります。「助ける人」とは、「自分が本当に人間として生きるのを助ける人」です。それは自分と全く違う存在です。他者と共に生きることによって、人は初めて人間らしく生きることができるのです。
パウロはこう書いています。「男の頭はキリスト、女の頭は男…キリストの頭は神」。一見、不思議な順序です。「キリストの頭は神」と最後に書くことによって、パウロは男の主人であるキリストが何をされたかということに目を向けさせます。キリストはすべての人の「頭」でありながら、神の僕としてすべての人のために命を棄てられました。キリストは自分の思い通りではなく、「頭」である神の「御心のままに」(マタイ26:39)生き、仕え、死なれました。ここで「女の頭は男」と言うとき、男性優位の主従関係ではなく、主人である男性は仕える者であるか問われるのだと思います。キリストの姿を見つめると、自分がいかにその姿とかけ離れているか、自らを省みずに相手のことばかり責めてしまうかということに気づかされます。キリストの姿を見つめるときに、わたしたちは初めて健やかな関係を作っていくことができるのだと思います。