キリスト者の自由 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章1-12節

説教要旨 1月6日録音


主日礼拝「キリスト者の自由」 石丸泰信牧師


コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章1-12節
 新年最初の礼拝で、「キリスト者の自由」という主題に思いを向けたいと思います。わたしたちにとって「自由」とは、誰からも束縛されず、好きなことをすることです。ある人は「現代で最も抑圧されているのは、信仰者と呼ばれる人々だろう」と言いました。「信仰者なのにこんなことを言っている」とか「信仰者なのに問題がある」とか、周囲から信仰者のあるべき姿を決めつけられることがあるからです。おそらく、コリント教会の人々もそうでした。けれども、パウロから自由を学び、周囲の抑圧から解放されました。そして、「わたしたちは自由だ」という言葉が、一種のスローガンとなっていきました。そのような中、パウロは、この手紙で、しかし、その与えられた自由を何のために使うのかを問題にするのです。
 パウロは自分への批判に対して反問します。「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか…」。コリント教会には、パウロの使徒性の真偽を疑う人たちがいました。パウロがコリント教会から生活費を受けず、テント職人として生活の資を得ていたからです。当時の人々は、伝道者の生活について哲学者をモデルに考えました。一流の哲学者は、教えを説くことで収入を得るか、生活を支えるパトロンを持ちました。支援者を得られない哲学者は、他の仕事を持つか、中には物乞いをする者もありました。謝礼もパトロンもなく手仕事で生計を立てるパウロは、優れた伝道者ではないと思われたのです。
 「わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか…」。否、働く者には食べる権利があり、蒔く者には刈り取る権利がある。他の使徒たちは教会からの援助で生活しましたし、パウロ自身も別の教会への手紙の中で贈り物への感謝を述べています(フィリピ4:10~20)。おそらく、パウロはコリント教会からも援助を受けることはできたのだと思います。しかし、自分は自由であるゆえに謝礼を受けることのできる権利を放棄するのだと言うのです。この教会で、自慢や高ぶりによって分裂が起こっていたからです。もし特定の人から援助を受けたら誰かを躓かせることになる、とパウロは考えたのでしょう。
 パウロは人々の批判を気に留めず、自由に振る舞いました。その自由な態度が批判を呼び、弁明が必要となったのですが、パウロは、ここでただ自己弁護しているのではありません。「自分は悪いことはしていない」とか、そういった話ではなく、むしろ「与えられた自由をより良いことのために使おう」と奨めているのです。彼らは、かつて信仰者として人の目の奴隷でしたが、解放され自由になりました。何人にも縛られず、思うように振る舞う権利がある。しかし、その自由を愛のために使ってほしい。自由であるゆえに愛の奴隷になってほしい、とパウロは考えているのです。宗教改革者のルターは、パウロの言葉から「キリスト者の自由」という本を書きました。自由な人だけが進んで誰かに仕える人になれる。反対に、進んで仕えることのできない人は、まだ自由にはなっていない人だ、と。パウロはそのことに気づいてほしいのです。
 パウロのこの姿勢は、パウロの個人的な資質や人格から出てきたものではないと思います。復活の主と出会ってパウロは変わりました。キリストは神の子でありながら、その権利を捨てられないとは考えず、自分を無にして仕える者となられました。御自分の権利を主張することなく、愛し抜いてくださいました。この主の姿がパウロの生き方を決めました。また、わたしたちの生き方も決めるのだと思います。
 わたしたちは信仰においてさえ自分への評価を気にします。しかし、神がご覧になる自分の本当の価値がわかると、自分が消えます。補欠で試合に出る選手は、自分をきちんと評価してほしいという思いで、自らを主張し前に出ます。しかし、キャプテンは、チーム全体のことを考え、あえて目立たないプレーをし、自らを後回しにするということがあります。自分が誰であるか知っている人は、進んで人に仕えることができます。その時の評価を気にせず、自由に振る舞うことができます。わたしたちも主イエスの姿を見、その御目に映る自らの価値に思いを深くし、本当の自由の中に生きたいと願います。