キリストの律法に従う 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章19-23節

説教要旨 1月20日録音


主日礼拝「キリストの律法に従う」 石丸泰信牧師


コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章19-23節
私たちは、これは確か、これは正しいというものをもって生きています。自分が正しいと思って互いに言い合う。だから、争いは絶えません。パウロは、それに対して、本当にそれでいいのですか、と言います。コリント教会では争いがあり、それで二つに割れていました。異教の神殿に捧げられた肉を食べて良いか否かを巡ってです。一方は食べてはいけない。神の律法に反するから。他方、食べても構わない。異教の神は迷信だから。対して、パウロは自由に食べても良いと言いました。しかし、こう続けます。弱い人を躓かせないために、わたしは食べません。わたしは自由だからです、と。
パウロのいう自由は、コリントの人たちが言っている自由とは少し違いました。彼らのいう自由とは「〇〇からの自由」です。律法からの自由。迷信からの自由。だから何を飲み食いしても構わない。自分の思うようにできる。他方、パウロの言っていることは「〇〇への自由」です。わたしは自由だから何でもすることができる。しかし、その自由をあえて、良いことためだけに使う。自分の為ではなく、相手の為に使いたい。だから、パウロは言うのです。「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のように・・・律法に支配されている人に対しては・・・律法に支配されている人のように・・・弱い人に対しては弱い人のようになりました」。その目的は「何とかして何人かでも救うためです」。パウロは、ここで全世界の人を救うなどと大きなことは言いません。身近な人。何人かでも救うため、自分の自由を使って相手のようになりたいのです。
この相手次第で態度が変わる様はコリント教会の人たちに混乱を引き起こしました。けれども、パウロの態度は一貫しています。彼の態度はいつも「キリストの律法に従っている」というものでした。キリストの律法とは何か。他の手紙ではこう書いています。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」(ガラテヤ6:2)。パウロは人からどう見られようと相手の重荷を担いたいのです。キリスト・イエスがそういう生き方をされた方だからです。福音書には主イエスが「中風の人をいやす」という記事があります(マルコ2:1-)。主が「あなたの罪は赦される」というと、周りの人たちは、神への冒涜だと考えました。この罪の責任は誰がとるのだということです。なぜ、主イエスは赦すと言えたのか。主が代わりに罪を担ってくださるからです。それが十字架の死です。
ある人は、互いに担いながら生きるとは、ボートに乗っているようなものだと言います。二人乗りのボートです。自分の船に弱い人を乗せてあげるというのではない。二人で漕いで初めて船は進みます。船に穴が開いたら責め合っている暇はありません。どちらが悪いと言っている間に船は沈む。失敗は互いに担います。パウロにとって目の前にいる人は、一緒にボートに乗っている人。だから、当然、相手のようになって、重荷を担おうとするのです。
パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者になるためです」と言います。福音とは良い知らせです。ああ、よかったという声の響き。これも福音です。ある人は、互いに担いながら生きることは「少し損をして生きる」ことではないかと言います。自分に権利があるのに人に譲ってしまうことは、少し損な生き方です。例えば、入り口に近い駐輪場は、高齢者や小さな子どもを連れた人に譲るつもりで、あえて遠くのスペースに止める。買い物をするとき、日付の新しいものを買うと、古いものは売れ残って廃棄されてしまうから、あえて、賞味期限の近いものを買う。一見、聖書の福音とは関係がないように思えます。けれども、人は本当に美味しいものを食べたときには、つい聞いてしまいます。誰が作ったの?良い曲を聴いたときには、誰の作詞?嬉しい経験をしたときも、同じと思います。なぜ、そうしてくれたの?と。パウロは言うと思います。「キリストの律法に従っている」だけです。誇れることではありません、と。
私たちは、いつも競争しているように生きてしまいますけれども、そこから自由になることができるのだと思います。主はゆっくり歩かれる方でした。相手に譲る、一緒に担う。どれも見た目は小さな事です。けれども、小さくても、ああ、よかった。スペースが近くに空いていて。ああ、良かった。今日は食品を廃棄せずに済んだ。その声は喜びの響きがあります。その喜びの声は、その人たちだけの声ではない。わたしも、その喜びに一緒に預かることができるのです。