そうせずにはいられないのです 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章12b-18節

説教要旨 1月13日 録音はありません


主日礼拝「そうせずにはいられないのです」 石丸泰信牧師


コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章12b-18節
 

 パウロは福音宣教によって生活の資を得る権利を持っていましたが、その権利を放棄すると語ってきました。ここでパウロは報酬を受けるか否かという話の背後にある事柄に触れています。それはパウロ自身が福音宣教に仕える理由です。パウロは、福音宣教の務めは、自分の思いでしているのではなく、「そうせずにはいられないことだから」しているのだと言います。パウロは、主人と僕の関係の中でこの務めを理解しています。僕にとって、主人に命じられたことをするのは当然のことで、僕がそれを誇ることはありません。さらに、それをしないなら自分は「不幸」だとまで語ります。聖書の語る「幸い」とは、神と共にあることです。パウロの言う「不幸」は、一般的な意味でなく神から離れてしまうことです。

 パウロはこの議論をさらに進めて言います。「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それはゆだねられている務めなのです」。わたしたちの間では、ボランティアのような自発的な仕事は無報酬でするけれども、強いられた仕事は報酬を受けるというのが常識です。しかし、パウロは反対に、ボランティアなら報酬を得るけれども、強いられてすることは「ゆだねられている務め」なのだと言います。パウロはここで召命を問題にしているのです。

 「ゆだねられている務め」という言葉は「摂理を託された務め」という意味合いの言葉です。パウロは神から命じられて、神の大きな計画を遂行するために福音を告げ知らせているのです。おそらく、パウロにとっては、望んですることも不承不承することも、対価を得る仕事はすべて自分の動機に基づくことの範疇なのだと思います。辛い仕事であっても対価を得るなら、自分で望んですることであって、それは辞めることができる仕事。しかし、自分の望みとは関係なく、神の召しを根拠にしている仕事は、摂理を託された「そうせずにはいられない」務めなのです。神の召しであれば、自分の意に反することもあると思います。「こんなはずじゃなかった・・」。「自分の計画は崩れた」。そう感じるとき、それは神の召しの始まりかもしれません。

 聖路加国際病院の元院長日野原重明さんが、主治医として死を看取った人たちの記録をまとめた『死をどう生きたか』という本に、35歳で亡くなった、ある女性の話が記されています。彼女は考古学者で夫と子どもがいました。ガンが見つかったときには既に末期でしたが、彼女は最後まで人生を全うしたいと考え、日野原先生のもとを訪れました。ある晩、病室に入ると、彼女が夫と話していたそうです。「ああ、だめね。こんなはずじゃなかったのよ。もっと冷静に受け止められると思ったのに。恐ろしいの。病気が恐ろしいの」。この頃から、ガンが転移し、痛みとしびれが強くなったと言います。周囲に、思い通りにならない自分を愚痴り、当たり散らし、家族に冷たいことを言います。しかし、自分の人生を受け止める時がきます。彼女の言葉が記されています。「いつも笑顔でやってきたのにダメだわ。つらくて。こんなはずじゃなかったのに。でも、これが、本当だったのかしら」。

 わたしたちは神に祈ります。「神よ、導いてください」。わたしを連れて行って下さいという祈りです。しかし、本当に心からそう祈っているのでしょうか。神の望む道が、自分の望むものと違っても、本当に「連れて行ってください」と言えるのでしょうか。本当は、自分の望むところから動きたくはありません。そう祈りたいのではないでしょうか。わたしたちは自分の人生の過去と今しか見ることができません。将来のことはわかりません。だから、心のどこかでは「導いてほしい」と願っているのに、その覚悟がない、恐いのです。だから、自分の意に沿わないことが起こると、わたしたちは思います。「こんなはずじゃなかった」と。けれども、そこでこそ本当のことが見えるかもしれません。わたしたちに人生を与えられた神は、過去も今も将来も、そのすべてをご存じだからです。その信頼を新しくしたいと思います。一つひとつのことが、神とわたしの関係の中で起こっています。「これが本当だったのだ」と、すぐには言えないかもしれません。けれども、一つひとつの出来事の中に神の計画を見、少しずつでも意味を見出すことができるように願います。