座っているだけか、プレーに参加するか? 石丸泰信牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章24-27節

説教要旨 1月27日録音


主日礼拝「座っているだけか、プレーに参加するか?」 石丸泰信牧師


コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章24-27節
アメリカのデューク大学のバスケットボールチームが全国大会で連続優勝した際、学内であるTシャツが流行りました。「試合について話すだけでなく、プレーできるか?」と書いてあるTシャツです。パウロは今日、同じことをわたしたちに問いかけています。「わたしたちは話しているだけでなく、プレーに参加できるか?」
コリント教会の人たちは、キリスト者の自由を得ました。「自分たちは自由だから、だれからも批判される筋合いはない」という彼らの態度は、しかし、パウロにはやみくもな自由、空を打つような生き方に見えました。パウロは「その自由を自分のためではなく、自身を律してだれかの喜びために使おう」と誘います。
パウロは競技場のランナーをイメージさせます。当時コリントの町では、オリンピア競技会(今のオリンピック)と同規模の「イストミア競技会」が開催されていました。競技はギリシア文化圏の人々にとって身近なものですが、聖書はしばしば、洗礼を受けてスタートする信仰生活をランナーのイメージを用いて語ります。おそらく、それは短距離のレースというよりは、マラソン競技のようなイメージです。
パウロは勝者に与えられる「冠」を指して、「賞を得るように走りなさい」と呼びかけます。当時、競技の勝者には月桂樹や松などで作られた「冠」が授けられました。競技に勝ったメダリストへのインタビューでは、勝利の瞬間よりも、その人がこの日までどのような節制と忍耐の日々を重ねてきたかに関心が寄せられます。わたしたちの信仰生活をマラソンにたとえるならば、このマラソン自体が節制と忍耐の連続です。このマラソンに参加した瞬間から、節制と忍耐が始まります。マラソンは息が切れますし、本当に苦しいものです。他者と競い合うというよりは、自分との戦いだと思います。この競技の「賞」とは、一番になった者に与えられる「朽ちる冠」ではなく、自分と戦って最後まで走り通した者が与る「朽ちない冠」です。
わたしたちは毎日の歩みの中で変わらない風景の中に身を置きながら、新しいことに出会います。同じ環境でも、足が不自由になって部屋を出ることができなくなることがあります。耳が不自由になって人と会話を楽しむことができなくなってしまうということがあります。今までトップ集団を走っていると思っていたのに、いつの間にか遅れをとっている自分に不安になることがあります。人生は、もしかすると最後まで節制と忍耐の連続かもしれません。その中で最も恐ろしいことは、自分が一人だと勘違いしてしまうことです。パウロは、「わたしたちは」と言います。マラソンは自分との戦いですが、一人で走るのではありません。皆が共に走るのです。だからこそ、皆は蹴落とすような競争相手ではなく、皆が共に「賞を得るように走」る仲間です。マラソンの目標はすべて走り通すことです。どんなに遅くともヨタヨタしていても、歩いてしまってもゴールがあり、そこで皆が待っています。主が「朽ちない冠」を持って待っていてくださいます。だから、パウロは「一緒に走ろう」と言います。
わたしたちは、「主のために」「誰かのために」と考えると、短距離走であるかのように走ってしまって息切れします。それで「もうだめだ」と思ってしまいます。けれども、立ち止まったり自分を顧みたりしながら、行ったり来たりしながら、少しずつ進むものなのだと思います。大切なのは、自分がどの道を走っているのか、忘れないでいることです。
教会の主題聖句「御言葉を行う人になりなさい」を決めた時、次のように言ったことを思い出します。「御言葉を行いなさい」でも、「祈り無きまま、すぐに行動すると疲れて倒れてしまいます」と。キリスト者のマラソンは、祈りながら生きるということなのだと思います。わたしたちの問題、あるいは誘惑は祈らなくなることです。わたしたちは立ち止まり、弱さを突きつけられます。しかし、祈りを取り戻すとき、自分はゴールに向かうコースにいるということ、一人ではないことを思い出すことができます。わたしたちは祈りにおいて、自らの歩みが神に知られ、多くの人と共にあることを忘れずにいたいのです。